福光園寺
【ふくこうおんじ】

東八代(ひがしやつしろ)郡御坂(みさか)町大野寺にある寺。真言宗智山派。山号は大野山。本尊は不動明王。創立は未詳だが,はじめ駒岳山大野寺と号した。保元2年当地領主大野対馬守重包が荒廃していた当寺を再興し,覧安上人を中興開山に請じたという(国志)。なお「寺記」にはこの時初めて駒岳山大野寺と号したとある。戦国期武田信玄の帰依を受ける。永禄11年3月,信玄は越後攻めに先立ち信濃国長沼で,当寺ほか法善寺(中巨摩(なかこま)郡若草町)・薬王寺(西八代郡三珠(みたま)町)・慈眼寺(東八代郡一宮町)など甲斐国内の諸寺に戦勝祈願を依頼(慈眼寺文書/甲州古文書2)。天正元年外護者である信玄が没し,伽藍を焼失するが,その後武田勝頼の保護を受けるようになる(国志)。勝頼は天正元年12月に信玄寄進の寺領を安堵し,当寺に御料人(妻妾)の息災延命の祈願を行い,翌2年3月には寺中内での狼藉禁止・門前の諸役免除などの禁制を出した(福光園寺文書/甲州古文書2)。同年8月32世実恵が権僧正に任じられるとともに京都大覚寺の院家とされた。この時現山寺号に改称したというが(国志),その後も「大野寺」と呼ばれている(福光園寺文書/甲州古文書2,寛文朱印留)。武田氏滅亡後,伊奈忠次の天正17年の検地帳によれば,大野寺郷内の寺町・柳田・経塚・御崎免・御影供・屋敷前に寺領があり,上之坊・無量寿院・多聞院など16子院の屋敷地8,652坪を有している(福光園寺文書/甲州古文書2)。続いて同年12月に忠次は大野寺郷内に73俵4升の寺領証文を給した(同前)。江戸期慶長8年3月に大野寺のうち26石3斗5升と寺地8,652坪を寄進され(四奉行黒印),幼少の徳川義直に代わって政務を担当した平岩親吉から禁制が下された(福光園寺文書/甲州古文書2)。当寺は甲斐国真言宗檀林七か寺の1つ(国志)。大覚寺を本寺とし,熊野神社別当の千手院(八代町)・信濃国埴科郡森村(長野県更埴市)の観竜寺など5か寺の末寺を擁し(本末帳集成),朱印地26石3斗5升ほか山林寺地を賜った(寛文朱印留)。安永7年と寛政12年の火災で諸堂を焼失。16子院も5つを残すのみとなった(国志)。昭和40年本堂・庫裏・観音堂を建立し現在に至る。木造香王観音像は火災の時井中に投ぜられたと伝え損傷が著しいが,藤原期の一木造りで,創立当初の本尊ともみられ,県文化財。木造吉祥天坐像は胎内銘により,鎌倉期寛喜3年蓮慶作で二天立像とともに国重文。そこに願主三枝氏・橘氏,国司と思われる藤原氏の名もあり,この像は在庁官人たちの当寺への帰依を物語り,同時に衰退の途にあった国衙勢力の最後の法灯ともみられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7098212 |





