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牧荘
【まきのしょう】


旧国名:甲斐

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。山梨郡のうち。馬木荘とも書き,高橋荘ともいう。南北朝期の貞治5年に改鋳された放光寺(塩山市藤木)の梵鐘に見える初鋳の際の銘文に「甲斐国牧庄法光寺奉鋳施鐘一口建久二年辛亥八月廿七日従五位下遠江守源朝臣義定」とある。源義定は源義清の四男(吾妻鏡)。安田氏を称し,平家追討の際には武田信義と並んで甲斐源氏の一方の領袖として活躍,寿永2年7月には,木曽義仲らとともに敗走する平氏軍を追って入洛した。同年8月の除目では,遠江守に任じられている。当荘は当時から義定の支配するところであったとみられる。「国志」によれば,義定に関連する遺跡として,前掲の放光寺のほかに,居城小田山城跡(牧丘町西保),館跡と伝えられる妙音寺(山梨市小原),開基にかかる普門寺(牧丘町西保),供養塔(山梨市下井尻)などが掲げられており,その勢力基盤が現在の牧丘町・山梨市から塩山市北部にかけての地域にあったことが知られよう。ところが,建久4年,義定の子息義資は罪を得て誅せられ,翌年には義定も謀反の科によって梟首された。「尊卑分脈」の注記によれば,義定は「於甲斐国馬木庄大井窪大御堂被誅畢」とあり,当荘内で死去したものらしい。「大井窪大御堂」とは,放光寺を指すとも,大井俣窪八幡神社(山梨市北)の地であるともいう(牧丘町誌)。義定の討伐には梶原景時と加藤景廉があたり,義定遺領は景廉に与えられたというが(鎌倉大草紙),現在,当荘と景廉を関連づける徴証は残されていない。鎌倉末期になると,当荘の在地領主として,幕府吏僚二階堂氏が確認される。嘉元3年冬,夢窓国師は故郷甲斐国に両親を見舞ったが,この時,「牧庄主」は国師を招いて「浄居蘭若」(牧丘町中牧の常牧山浄居寺)を開創した(夢窓国師年譜/続群9下)。この「牧庄主」は二階堂道蘊であると推測されている(牧丘町誌)。ついで,国師は元徳2年9月,「甲州牧荘」にゆき,恵林寺を創建したが(夢窓国師年譜/続群9下),国師の死後,明の宋濂が撰した「日本国天竜禅寺開山夢窓正覚心宗普済国師碑銘」には「(元徳)二年,羽州守藤道蘊初恵林寺,迫師莅其事」とあり(続群9下),恵林寺創建に道蘊がかかわったことが知られる。道蘊は,鎌倉幕府倒壊後も建武政権の雑訴決断所所衆として活動したが,建武元年12月,罪を得て所領を没収された。建武2年正月25日の後醍醐天皇綸旨には「甲斐国牧荘〈号高橋荘〉東方〈道蘊跡〉」とあり(臨川寺文書/大日料6‐2),当荘東方のうち恵林寺領を除く分が道蘊遺領として,夢窓国師を開山に迎えた京都臨川寺に寄進されている。同年8月30日,加賀国大野荘地頭職が同寺に与えられ,当荘東方は同寺の手を離れたが,正平7年2月16日には再び臨川寺領に復した(同前/大日料6-16)。南北朝期には,至徳4年の「塩山抜隊和尚語録」に「甲州路牧荘県宝珠寺住持昌秀禅師」が塩山向嶽庵で逆修を行ったことが見える(大正新修大蔵経)。室町・戦国期の史料的所見としては,千野々宮中牧神社の文明10年11月22日付棟札に「山梨郡牧庄中牧郷第一位霊廟十一面大士垂跡也」とあり,また御岳羅漢寺(敷島町吉沢)蔵阿弥陀如来坐像の応永30年4月23日付銘文に「甲州御牧庄天台山羅漢寺釈迦如来像」とある「御牧庄」も当荘を指すと推定されている(牧丘町誌)。当時の在地領主は判然としないが,一時期,守護代として甲斐守護武田氏を凌駕するほどの勢力をふるった跡部上野介景家は,寛正6年,西保の小田野城(牧丘町西保)で自害していることからみて(王代記),当荘域を勢力基盤としたものと推測される。荘域について「国志」は「窪八幡以北加美郷一体ニ之ヲ称ス,東ハ今西保・徳和等ノ山ニ入会ノ村々恵林寺・河浦入トモニ皆此庄ニ隷ス」とする。現在の牧丘町・三富村を中心に山梨市北部・塩山市西部に比定されるが,さらに甲府市を経て敷島町にまで及んだ時期もあったらしい。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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