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元紺屋町
【もとこんやまち】


旧国名:甲斐

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町。慶長16年の古府中再縄水帳(甲府略志)では「こうや小路」と見える。武田氏の時代に造営された町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた。新城下の造営に際して下府中(新府中)に町名を移し,当町には古をつけて古紺屋町と称し,のちに宝永元年の柳沢吉保の甲府入封にともない元紺屋町と改めた。町人地。甲府城の北,郭外に位置する。町並みは西の元城屋町と並行して南北に広がり,南北1町,東側198間・西側142間(国志)。東には標高400m級の荒神山と愛宕山が並び,そのすその傾斜を段々に平らにしては家屋が建てられた。北は古府中村字山之越と,名刹大泉寺門前道路が交わり,南は愛宕町に接する。町名の由来は,武田信虎の時代に紺屋職人が居住し,農業のかたわら武将の旗指物や手綱・馬具の染物の注文に応じていたことによるという。町の西側を藤川が南流するため,北部では片側家並みであるが,南部では西南に流れが変わり両側家並みとなる。戸口は,寛文10年81人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年33戸(上下府中間別/同前),享保5年87人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年78人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年21戸・43人,うち男31・女12(国志),天保7年20戸・43人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)。町人足役を勤める大助32町の1町で,年間の人足出役基準は4人。当町には寺院が多く,真言宗真如山華光院良林寺と子院長厳院・良林寺末延寿院・不動山長谷寺・明王院・法鏡院,曹洞宗大泉寺末万松山宗信院・同末朝日山東昌院,臨済宗永明院,日蓮宗仏寿山妙遠寺,修験当山行蔵院・祇園寺・本山派福昌院があり,このうち祇園寺ははじめ古府中躑躅ケ崎(つつじがさき)館の鎮護として武田氏の保護を受け,修験寺の触頭として出陣の法螺貝吹鳴の役,他国へ軍事密偵察の役を本山派の福昌院とともにもっていた。また祇園寺は愛宕山上に牛頭天王社を祀ってその別当を勤め,牛頭天王社の氏子には,御納戸小路・新紺屋町・愛宕町・元紺屋町・古府中村・岩窪村など甲府城の東・北の町々があった。毎年正月・6月・9月・11月の祇園会祭典には氏子町内の人々が御輿渡御を行い,また元和元年には疫病が流行したため疫病神祓いとして臨時に御輿を繰り出した。牛頭天王は一名武塔天神,別名素戔嗚尊といい,仏教の周辺的眷属(天部)の信仰が平安期に始まり,疫神や災害の原因として考えられる怨霊の来襲をなだめる祭りとして御霊会が国家的行事で京都で行われ,これが甲州へ伝えられた。享保18年には異常気象により全国的な飢饉に陥り,その後疫病が流行したが,氏子町の人々は祇園寺に牛頭天王御輿出動を要請し,御輿を華やかに色紙などを使って飾りたて,町々を練り回った。甲府の古社(府中八幡・御崎・穴切・柴宮・千塚八幡)の神主らは神道にまぎらわしき神儀として御輿練りの差止めを甲府城勤番支配へたびたび願い出て,御輿練りは次第に小規模になった。この出動には町年寄や町名主らも賛意を表しており,民衆の疫病に対する恐怖の大きかったことが推知される。京都では鉾や山車,祇園囃子も発達し,祇園祭りは民俗芸能を残したが,甲府では行政措置で育たなかった。永明院および東昌院は府内観音霊場として,それぞれ29番・30番の順礼札所になっている。福昌院の隣接地には熊野神社が祀られ,熊野信仰が普及した。当町と元城屋町の間にある八幡山には甲斐の総社八幡神社が鎮座する。明治維新後,神仏分離令により寺院の多い元紺屋町では墓地・檀家をもつ寺院でも末寺格では本寺に合併し,檀家で葬式が出た場合は本寺で葬式をするようになった。華光院は末寺を合併し,葬式を引き受けるようになってから,墓地を荒神山の中腹に設け,また大工職人の参詣も増えたので毘沙門堂を太子堂に変えた。毘沙門像・聖徳太子像・弁天像の3体は古くは甲府城内にあったが柳沢吉里が大和郡山へ国替えの時,華光院に納めた由緒のものである。檀家のない当山派・本山派の修験寺は廃寺にすることを本山で承認したが,このうち行蔵院は本山の真言宗醍醐寺三宝院から明治6年4月本宗に帰入することを認められ,修験を脱した。また祇園寺は廃寺となり,僧侶か神主か,いずれかに転身を強いられた祇園寺の武田家は両者を捨てたが,氏子の各町が牛頭天王社を盛り立て,同社は独立して八雲神社になった。本山派の福昌院も廃寺になったが,熊野神社は別の神主の支配に移り残された。明治3年の戸数11,うち家持10・借家1(甲府町方家数人数取調書)。同17年上府中組戸長役場の管轄区に入る。同22年甲府市に所属。同年から同36年まで上府中を冠称。戸数・人口の推移は,明治22年41・163,同31年41・201,同41年47・234,大正7年56・285。甲府市では明治30~31年に赤痢が大流行したが,患者の収容・隔離施設がなかったため,同31年急遽町内に伝染病舎を建設,一部の患者収容に間に合わせた。同病舎は同32年に完成したが,昭和3年に腸チフスが多発した時には病棟が不足した。このため市立病院の建設が要望され,同7年甲府病院が開設された。第2次大戦中は県病院の分院となり,戦後の同24年市立甲府病院が本格的に設立されると,これに吸収された。同32年町内にカトリック教主管の聖ヨゼフ老人ホームが開設された。大正期に荒神山と愛宕山の中腹に市道愛宕線が開削されたため,この高台は住宅地化した。会社の職員寮や組合アパートなども建てられた。世帯数・人口は,昭和12年93・429,同22年101・475,同50年332・977,同56年379・979。昭和37年一部が宮前町となる。




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「角川日本地名大辞典」
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