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青柳城
【あおやぎじょう】


戦国期の城。東筑摩郡坂北村の青柳に所在。四阿屋(あずまや)山の西に出た尾根先の標高903mの地点に山城を,その山麓に居館をもつ。麻績(おみ)御厨預職で,信濃守護小笠原氏に属した青柳氏の本城。築城の時期は未詳で,「信府統記」にも「城主青柳近江守清長,同伊勢守頼長二代ハ事跡アリ,其前ノ伝知レズ」とある(信叢6)。居館は約3,000m(^2)の単郭。山城の尾根先の山麓にあり,前面の西は石垣,南は沢水による急斜面,北には僅かに堀跡が認められる。前面の「こうじ」と呼ばれる緩傾斜地に屋敷割らしいものが残る。屋敷割の両側は小さな沢が天然の堀になっている。居館跡は現在曹洞宗柳庵山清長寺となっており,城主青柳清長の菩提寺。山城へは,居館を北へ出て,小尾根を越えて南斜面を登る。山城は細い尾根先に主郭をもち,東の狭長な尾根には小郭と空堀が数個続く。南斜面には小さな段を掻き均し,北は急傾斜のため自然のままである。主郭は35m×12m。主郭の虎口は南側東端へ入る。水の手は南下の沢水を使ったと思われる。青柳氏は,天文22年以降武田氏に従い,「高白斎記」によれば,同年4月15日に武田晴信が松本を立って青柳に泊まり,同17日弟信繁に青柳城の鍬立てをさせている(信叢8)。天正10年武田氏滅亡後は織田氏を経て上杉氏に属し,坂北での勢力を保持した。翌年上杉景勝は青柳城に本陣をおいて松本城の小笠原貞慶を破り,小笠原方についた青柳氏は城を失った。その後,上杉氏が越後に戻ったことから,小笠原氏は筑摩郡北部地方をとりもどし,青柳氏は麻積・青柳両城を支配した。天正15年当主青柳頼長は小笠原貞慶に謀殺され,青柳城には小笠原家臣溝口貞秀が入り,のち同家臣松林右橘が在番した。支城に西条・竹場・仁熊の諸城がある。昭和49年,青柳氏城館跡として県史跡に指定された。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7098857