100辞書・辞典一括検索

JLogos

24

潮沢村
【うしおざわむら】


旧国名:信濃

(近世)江戸期~明治8年の村名。筑摩郡のうち。犀川支流潮沢川流域の山間地帯に位置する。中世以来,山城や見張所の番兵の子孫が山腹に住みつき,開墾をはじめたといい,小集落11が散在し,産土神13・諸堂17を数える。祭りもそれぞれに行い,また集落間での相互扶助もあり,素朴な民俗行事を多く残す。寛永5年頃潮村から分村して成立。はじめ松本藩領,享保10年からは幕府領(寛保3年~宝暦4年,天明5年以降は松本藩預り地)。はじめ麻績(おみ)組,享保11年から川手組に属する。村高は,「元禄郷帳」48石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに278石余。慶長4年検地では,高173石余,反別は田3町余・畑81町余。享保5年の家数95・人数639(男360・女279),馬28。当村から善光寺方面へ間道が通っている。年貢は金納。山地のため,地滑りや沢の水害による被害に苦しんだ。安永8年検地では,新たに28町余の畑が打ち出された。しかし天明・天保の飢饉では,村民全員が飢えたので,夫食や金を拝借している。文化・文政年間以降,刻み煙草の生産がふえ,現金収入が増加,慶応元年には煙草商人が7人いた。祭日には俳句が盛んに行われ,奉額が多く残っている。天保3年から木戸に船問屋が置かれ,犀川通船の要地となる。明治2年の会田騒動の際に,この船問屋が被害を受けることになる。天保5年の家数211・人数1,064(男571・女493),馬33,反別は田3町余・畑113町余。寺子屋師匠は,寛政年間以降13人を数えた。明治2年伊那県,同4年筑摩県に所属。同6年権現堂に励奨学校が開校,同8年の教員8,生徒数は男104・女66。同年東川手村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7099403