漆田館
【うるしだたて】

漆田城ともいう。室町期の館。長野市中御所に所在。館跡は字御所にあって現在八幡社境内となっており,近くに堀・漆田の地名も残る。館跡は東西66m・南北55mで,周囲より一段高いが,遺構はない。北側にわずかに堀跡が認められるが,宅地になっている。善光寺後町には鎌倉初期以来,信濃国衙が置かれていた。信濃守護が目代を兼ねたので守護所も善光寺町に置かれたのであろう。国衙兼守護所ははじめ問御所(豊御所)にあったらしいが,のち中御所に移されたらしい。この守護館にいた小笠原政康は小笠原中興の祖といわれ,政康の代に信濃一国はほぼ彼の指揮下に入ったが,政康が死に,子宗康が守護を嗣ぐと,従兄弟の政長がそれを不満として漆田の館を攻めた。この相続争いの戦いが「善光寺表漆田原〈大黒塚云〉」で行われ宗康は敗死した(小笠原系図/続群5-下)。のち館は在地の豪族漆田氏の居館となり,同氏は寛正3年の漆田式部尉秀興から秀豊-貞秀が確認されており,文明9年8月には「漆田城被責一騎,城於栗田江被渡候」とある(諏訪御符礼之古書/信叢2)。その後の漆田氏の動向は未詳だが,秀豊の墓と伝える宝篋印塔が観音寺にある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7099486 |