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小野川村
【おのがわむら】


旧国名:信濃

(近世)江戸期~明治8年の村名。伊那郡のうち。阿智川の右岸に位置する。集落は,綱掛山南東麓の台地上と支流大沢川の氾濫原に散在,また阿智川の上流本谷川の開析による小台地や氾濫原に園原新田(園原・本谷)がある。元和6~9年の4年間が旗本村上氏領であったほかは幕府領。野熊(のうま)山付き榑木成村6か村の一村。田畑1筆ごとの反別表示の帳がなく無反別であったが,寛保3年に園原新田の検地が行われて村高は倍増した。「天正高帳」「正保知行付」「元禄郷帳」ともに95石余,「天保郷帳」では196石余となり,「旧高旧領」は208石余。園原は,古代東山道が険難な神坂峠を越えてきた東麓の小集落で,「ははきぎ」「ふせや」などと,平安期以後の和歌をはじめとする文学作品に多くみられる地名であるが,室町期には木曽路が整備されて神坂峠越えをする人がなくなり,ついに園原は無人の里になったという。享保年間小野川村の人々が同地へ入って開拓したが,幕府の御林があり,6か村の入会山もあるため問題となり,元文5年ようやく23戸(実数36戸)が園原新田として定住を公認され(園原末代鑑),安政6年以降村方三役が置かれた。寛保3年の御検地名前書上帳(園原を含む)による家数75・人口450。家数人別仕訳書では,天保8年が152軒・814人,馬42,明治元年が186軒・1,022人,馬127。社寺は伏谷社(旧八王子権現)・神坂神社(旧住吉明神)・大平神社(俗称頭権現)・無量寺(廃寺)・常念寺(廃寺)・園原薬師堂(伝教大師遺跡広拯院)。網掛峠の東麓に,武田信玄が弘治2年に設けたという小野川関所があったが,江戸期は網掛~神坂峠を越える人はほとんどなく,明治2年の廃止まで阿島の知久氏が預っていた。明治元年伊那県,同4年筑摩県に所属。同8年阿知村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7099826