100辞書・辞典一括検索

JLogos

68

塩沢堰
【しおざわせぎ】


北佐久郡立科(たてしな)町の弁天神(べていじん)源泉と水出の湧水より取水,蓼科(たてしな)山腹を流下し,立科町芦田を経て同町塩沢に至る灌漑用水路。延長54km。受益面積175ha,最大取水量毎秒0.614m(^3)。現在は,川西土地改良区連合による県営御牧原農業水利改良事業で,各水源から導水された水を荒井戸頭首工で取水,分水する。同事業は,昭和35年に塩沢堰・宇山堰・八重原堰(蓼科三堰)および五郎兵衛用水,御牧ケ原を含む9土地改良区が北佐久郡川西土地改良区連合会を設立,翌年より着工した。塩沢堰の第11代六川長三郎千茂登が水利事業の発展のために土地改良区の統合,事業の推進を図り,立科土地改良区は同37年に設立された。赤沼溜池(女神湖),県営立科1~3号幹線用水路,県営御牧原1号幹線用水路,団体営立科1~4号幹線など,旧来の堰筋を利用したり隧道を新設し,同51年に完成した。総工費13億3,800万円(沿革史蓼科の水)。塩沢堰は,六川長三郎勝家が寛永年間に田屋原を開拓後,塩沢新田の開発を計画,正保元年に着工,同3年延長約10里を開削した用水である。用水の水源は,標高1,680m地点の弁天神源泉のほか本堰の7出水(ですい),標高1,660m地点の水出源泉ほか和美堰に5出水,両堰合流後1出水がある。初代長三郎が山中に源泉を求めた苦心や,歴代長三郎が山腹の堰筋の維持管理に苦慮したことが今に伝えられる。六川家は新田大将・新田支配と呼ばれ,用水の管理と秩序の維持に絶大な権力をもっていた。分水施設は,開発後中途で番木あるいは水桝が用いられ,位置・寸法が厳重に守られた。水の配分は,すべて代々の六川長三郎の経験により指示され,誤るところがなかったという(長野県における農業水利の展開と農業発展)。新田への水の配分は,桝外の芝草を切り落として配水する廻水が行われた。用水は古和清水より上を岳堰,下流を里堰と呼び,岳普請は5月10日より5泊6日を原則とし,里普請は4月中旬に行った。明治10年頃,9代長三郎源吾は堰支配を担当制に切り替え,用水堰維持費を灌漑地域負担とし,副担当を置いた。六川家は元禄7年の助郷役の免除をはじめ,溜池の築堤・堰の改修など功績が大きく,中の家に「疏水二百五十年記念碑」,功勝霊神を祀る神社に「疏水三百年記念碑」,弁天神に頌徳碑がたつ。また,立科土地改良区の設立,水利事業の完成を機に,六川家に永代貸与の形で山林が贈られた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7101006