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西牧郷
【にしまきのごう】


旧国名:信濃

(中世)鎌倉期~戦国期に見える郷名。安曇(あずみ)郡のうち。筑摩郡のうちとも見える。嘉暦4年の諏訪大宮造営目録に「三之鳥居一之東方西牧郷 権祝」と見え,諏訪社上社造営にあたって,当郷に東方大鳥居造立の所役が充て課されている(信史5)。下って文明12年の諏訪社上社の神使御頭足について「宮付西牧,前讃岐守満兼御符祝一貫八百」と見え,また同年2月2日にも「宮付西牧御精進初」とあり,さらに同月6日夜,諏訪社下社の神官金刺興春らが同上社へ乱入,放火したが,そのとき「西牧御精進屋」も炎上した(守矢満実書留/信叢7)。「神使御頭之日記」享禄元年・天文3年条には「宮付西牧」,同日記天文9年・同12年条には「大県介 西牧」,同21年条には「宮付西牧」と見える(信叢14)。また「神使御頭足之書」によれば,永禄8年度分の御頭として「内県官付 西牧郷」,天正4年条における明年度分の御頭として「内県官付 西牧郷」,同10年条には「宮付 西牧」,同18年条には「内県官付 西牧郷」と諏訪社上社の神使御頭役を当郷が勤仕している(同前)。「守矢頼真書留」天文12年条には「宮付は明候〈頭人ハ西牧〉」とあり,当地の在地領主西牧氏が頭人になっている(信叢7)。元亀2年2月14日,武田信玄は「西牧郷」に対して諏訪社上社の頭役を神長官の指図に従って勤仕するよう命じている(諏訪文書/信史13)。同年3月の「御頭役請執帳」では弐御頭役を当郷に定め,御供を篠原讃岐守が,御酒を河西源左衛門が負担している(信史13)。当郷内には小倉(小蔵)・古幡・竜田(立田)・北条などの小郷村を含んでいた。小倉は,天正6年,下諏訪春宮の造宮にあたっては不開之御門の造営費用を負担し,また同年の下諏訪秋宮造宮帳では秋宮の外籬4間の造営を負担している(同前14)。天正7年の下宮春宮では,以前と同様に春宮不明(開)門を造立しているが,それには「西牧之内小蔵郷」と見え,正物3貫文を割り当てられている(信叢2)。ただ天正6年の上諏訪造宮清書帳には,上諏訪社の東方大鳥居が「筑摩郡西牧」内の上野・竜田(立田)・古幡3か郷の負担によって造立されている(同前)。当時,一時的に当郷域が筑摩郡に編入されたのか,誤記であるか定かでない。北条については,天正10年8月10日の小笠原貞慶寄進状に見えるのが初見で,「西牧之北条」以下が新たに祝梅庵へ寄進されている(小野文書/信史15)。また同年9月2日,小笠原貞慶は金松寺へ「西牧北条之内」で50貫文の地を寄進している(旧記集/同前15)。当郷および住吉荘の開発領主といわれる西牧氏(滋野姓)は,おそらく当郷の地頭であったと思われるが,建武2年に小笠原氏が足利尊氏から住吉荘を与えられたせいか,以後室町期~戦国期に守護小笠原氏に敵対した。応永年間の大文字一揆注進状にも西牧氏一族は名を連らね(丸山文庫文書/信史7),反守護闘争に加わっている。武田氏が信濃に進出すると,小笠原氏に背き,天正9年から同10年にかけて西牧氏は徳川家康方の木曽義昌に内応,さらに上杉氏の勢力を背景に小笠原氏が入部すると,西牧氏は当郷を失い,没落した。天正11年8月14日,小笠原貞慶は二木重吉に「西牧領分上司之代官同職方」および「にしまきりやうふん河にしのしろき材木,薪」を二木市で売買する権利を安堵している(御証文集/同前16)。現在の梓川村上野・梓のあたりに比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7102542