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原町
【はらまち】


旧国名:信濃

(近世)江戸期~明治9年の町名。上田城下の一町。城下町のほぼ中央部を南北に延びる町人町。天正11年真田昌幸が上田に築城した際,小県(ちいさがた)郡原之郷の人々が移住させられて成立した。町名は,初期住民の出身地名に由来する。南端は海野町分の堺町(西の横町)に続き,その先西側が追手口になっていた。北は,原町の一部である蛭沢川の土橋を経て丁字路を西折すると木町となる。そのまま西へ直進し,蛭沢川を再度渡ると木町口の木戸があり,それから先は武家屋敷となる。蛭沢川を渡らず,右手北側に折れると柳町となり,その北側で西折して蛭沢川を渡ると紺屋町となる。この原町・木町・柳町・紺屋町へと続く道筋は,北国脇往還である。柳町の北端を北に進み矢出沢川を渡ると,真言宗海禅寺と浄土宗呈蓮寺があった。なお原町の土橋から東は田町に,西は連歌町に通じていた。また原町のほぼ中央から西に入る道が1本だけあり,獄舎につながっていたことから牢屋小路と呼ばれた。当町の堺町境から東に入る小道を南に開いて海野町問屋向いと結び,文化4年相生町と通称する町ができた。原町は海野町とともに城下町屋町の中心で,田町・木町・柳町・紺屋町は,いずれも原町分とされていた。宿としての役割を負わされており,伝馬役25人・馬25疋は海野町と月交代で勤めた。常備の人馬が不足するときは,領内53か村からの寄人馬で補った。問屋は,中央東側にあり,代々滝沢助右衛門家が勤めた。なお滝沢家歴代の当主の手になる日記数は,寛文3年から明治2年まで157冊に及び,市の文化財に指定されている。問屋の南側に,蛭沢川にぶつかる小道があり,文化13年の原町屋敷割図によると,これを中小路と呼んでいた(上田歴史地図)。この中小路がさらに東に延びて馬場町まで通じ,東町となった。元治2年のことという。問屋の向かい側に市神がある。六斎市が開かれ,市日は初め5・10の日であったが,享保9年海野町の願いにより8・10の日に改められた。なお文政年間の「商家高名録」には,呉服太物商11軒・休泊所4軒・薬商4軒・紙類商3軒が載せられているが,文化13年の原町屋敷割図には屋号を持った家だけでも50軒を超えている。寛文3年の上田領戸口改(県史近世史料1‐1)で,戸数96,人数は男374・女390・奉公人26の合計790。宝永3年の上田御城下差出帳(同前)では,原町・田町・柳町一緒で,戸数142,人数は男704・女527・出家4の合計1,235,このうちに桶屋10・畳屋3・建具屋1・紺屋2・檜物師1・傘屋1・木挽2・座頭2・酒屋15があった。同7年は原町だけで戸数85・人口631(上田市史)。明治9年上田町の一部となる。なお現在も通称として用いられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7102787