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東塩田村
【ひがししおだむら】


(近代)明治22年~昭和31年の小県(ちいさがた)郡の自治体名。上田盆地南部,塩田平の南端,独鈷(どつこ)山系北麓に位置する。山麓を北流する河川は東から尾根川・尻無川・神戸川があり,扇状地が形成されている。下之郷・古安曽(こあそ)の2か村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。明治24年の戸数543,人口は男1,388・女1,298,学校1・水車場1。昭和24年富士山村を合併,旧村域をもって大字富士山とし,3大字となる。役場・学校を鈴子に設置。背後の独鈷山系から流れる諸河川は水量が少なく,干害を受けやすかったため来光寺池・手洗池・新池などによる溜池潅漑に依存していた。扇状地では養蚕業が広く行われ,とりわけ幕末から行われていた蚕種業は昭和初期にかけて盛んとなる。明治36年の蚕種製造戸数は一化性39戸,原種用4,978枚・製糸用1万2,995枚,二化性15戸,原種用298枚・製糸用1,453枚(県史)。こうした養蚕業・蚕種業の発展を背景に,明治32年柳沢銀行・東塩田銀行,同33年古安曽銀行が設立した。蚕種業は昭和恐慌を境に急減,昭和10年の蚕種製造戸数は4戸となる(上田小県誌)。養蚕業は打撃を受けながらも主要産業であり,養蚕戸数・繭生産量は,大正8年530・5万5,500貫,昭和10年440・4万6,000貫,同24年645・1万3,600貫であった。こうした状況は土地利用面にも反映し,昭和4年の水田158町余・畑6町余・桑畑330町余・果樹園0.9町(県農業調査)。第2次大戦後も桑畑を維持,富士山村と合併後は郡下第一の養蚕村として知られた。一方米作地として知られる塩田平では,昭和25年の米6,500石(うち供出1,787石)・麦2,870石(うち供出1,780石)・大小豆900石(信毎年鑑)。同年の水田248町余・畑250町余・桑畑204町余・果樹園7ha余(農業センサス)。第2次大戦後,薬用人参の栽培が増加した。交通面では二ツ木峠越えで丸子町・上田と結び,平井寺峠を経て東内村と,村の東の砂原峠や久保峠は丸子町と結んでいた。大正10年上田温泉軌道川西線が開設,下之郷の北に駅を開設,同15年には下之郷駅から依田窪線(西丸子線)を分岐,宮前・石神・東塩田・富士山・馬場(ばつば)の各駅を開設した。世帯数・人口は,大正9年664・3,023・昭和10年580・2,890,同25年1,172・6,218。同31年塩田町の一部となり,3大字は同町の大字に継承。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7102838