南大妻村
【みなみおおづまむら】

旧国名:信濃
(近世)江戸期~明治7年の村名。安曇(あずみ)郡のうち。梓川左岸扇状地上の第2段丘面に位置する。大妻の地名の由来は,北大妻の野々宮神社の祭神大倭姫命が景行天皇の娘,すなわち王妻であることから転じて大妻となったとも(信府統記),男女(おめ)沢堰にちなむ地名ともいい,端(つま)という立地や地形からとったという説もある(南安曇郡誌)。当村は戦国期に見える大妻南方に由来するか。松本藩領。上野組に属する。村高は,「慶長改帳」958石余,「正保書上」「元禄郷帳」ともに750石余,「天保郷帳」864石余,「旧高旧領」870石余。地内は上大妻と下大妻とに分かれていた。村内の水田は梓川から取水する男女沢堰・温(ぬる)堰により潅漑された。貞享3年の貞享騒動の時,当村の庄屋小松作兵衛一族は首謀者の1人として礫・獄門に処せられた。享保13年の人数595。天保年間頃から琉球表(畳表)の生産が始まり,慶応3年の産物書上では1,500枚(140両),隣の北大妻村でも240枚(24両)を産しており,明治期まで生産が続けられた(同前)。安政2年の安曇筑摩両郡村々明細書上帳(県史近世史料5‐1)によれば,家数133・人数810。大妻神社は諏訪神社と関係が深く,建御名方命と北大妻村に館跡がある大妻太郎兼澄とを祀る。浄土真宗の大音山正覚寺は明応元年の開基という。ほかに真言宗長称寺・浄土宗光入寺があった。明治4年松本県を経て筑摩県に所属。同7年倭(やまと)村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7103538 |





