横沢町
【よこさわちょう】

旧国名:信濃
(近世)江戸期の町名。善光寺町の一町。立町とともに門前とも呼ばれ,大勧進に直属し,善光寺町年寄の支配から独立していた。善光寺大勧進の西に接する南北の町で,南は新道と接する。なお,明治12年の長野町図(長野市史)では,南は安良町と接する。主として善光寺関係者と職人などの居住する町であった。明治元年の人数860,うち男409・女451(同前)。文化5年には立町と合わせて1,136人(長野市史考)。弘化4年の善光寺大地震での死者は立町も合わせたものと思われるが113人とある(同前)。元治元年の人数は,立町を含めて1,149(同前)。慶応元年には戸数262で,鳶職40人・大工13人・香具師9人,行商33人・小間物13人などがいた。八幡社があり,明治5年善光寺境内の秋葉社・鹿島社が合祀された。明治4年善光寺領は廃止され,これに伴って以後は長野村・長野町のうちの通称町名となり,現在も長野市長野のうちの通称町名として残る。なお,明治31年には1,894人,大正5年には2,096人と増加したが,近年はドーナツ化現象により昭和62年には708人と減っている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7103942 |