宇津ノ谷峠
【うつのやとうげ】

静岡市大字宇津ノ谷と岡部町大字岡部の境にある峠。標高170m。安倍川の支流丸子川と瀬戸川水系岡部川との分水界をなす。古来薩埵(さつた)峠などと並ぶ東海道の隘路の1つ。奈良期・平安前期には焼津の花沢から日本坂を越えたが,峠が急峻なため,平安中期以後は葛の細道や宇津ノ谷峠を通過した。在原業平の「伊勢物語」で,「行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて,わが入らむとする道は,いと暗う細きに,つたかえでは茂り,物心ぼそく,すゞろなるめを見ることと思ふに,修行者あひたり」と見える。古代から東海道の官道であったため,当然,各種の文学作品にしばしばこの名が登場する。「平治物語」「平家物語」「源平盛衰記」「義経記」「太平記」などの軍記物語,「十六夜日記」「とはずがたり」のような女流日記文学,あるいは「新古今集」「新撰菟玖波集」などの歌集・連歌集に用例が少なくない。「旅寝する夢路は許せ宇津の山関とは聞かず守る人もなし」(新古今集巻10,藤原家隆)「都にも今や衣をうつの山ゆふ霜はらふ蔦の下みち」(同前巻10,藤原定家)「袖にしも月かかれとは契りおかず涙は知るや宇津の山越え」(同前巻10,鴨長明),「踏み分けしむかしは夢かうつの山おととも見えぬ蔦の下道」(続古今集巻10,藤原雅経),「音に聞くうつの山べのうつつにも夢にも見ぬに人の恋しき」(古今六帖,紀友則)などはその例。「山芋も茂りてくらし宇津の山」(許六)「うら枯や馬も餅食う宇津の山」(其角)など俳句も多く作られている。だが,往時の状況がよくわかるのはやはり紀行文で,たとえば,貞応2年(1223)4月の「海道記」には「うつの山路につたを尋ぬれば昔の跡夢にして風の音おどろかす。木々の下には下ごとに翠帳をたれて,行客の苦みをいこへ,夜々の泊りにはとまりごとにもまくらをむすびてたび人のねぶりをたすく」と見え,仁治3年(1242)の「東関紀行」には「宇津の山をこゆれば,つたかえではしげりてむかしのあとたえず」とある。もっとも,東海道の名に知られた難所だっただけに「吾妻鏡」永和4年6月12日の条には「御台所御方女房丹後局,自京都参着,於駿河国宇都山為群盗等,所持財宝并自坊殿,被整下御装束等」と,山賊の横行した事実をも記している。なお,当峠は江戸期以降,蔦の細道といわれ,これは「伊勢物語」にちなんでいる。また,江戸末期に河竹黙阿弥が歌舞伎脚本「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」を書き,座頭文弥殺しの場所としたのも,あながちいわれのないことではない。戦国期になると西方約750mの峠を通る東海道が開かれた。この経路は標高が低く緩斜面で,集落も多いことから,街道として価値を高め,明治初期まで栄えたが,明治期以来3本のトンネルが峠下を貫通したため,峠越えの交通量は減少した。しかし峠道は地元有志の手でよく残されており,現在江戸期の峠には,天保5年人馬安全などを祈願した自然石の題目宝塔や鼻取地蔵堂,お羽織屋,十団子(とおだんご)ゆかりの曹洞宗慶竜寺などの史跡・文学探訪のハイキングコースとして利用されている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7110041 |





