河東
【かとう】

旧国名:駿河
(中世)戦国期に見える地名。駿河(するが)国東部地域,すなわち富士川以東の富士郡・駿東(すんとう)郡一帯を指し,名称もそのことに由来する。天文6年のものと推定される3月7日付鶴岡八幡宮供僧相承院宛て北条氏綱書状に「当口河東之(ママ),悉以本意候」とあるのが早い事例(相承院文書/神奈川県史資料編3)。この年,小田原北条氏は,今川義元と武田信虎息女の婚姻による同盟関係成立に対抗して駿河に侵入したが,上掲史料はこの時の陣中祈念の巻数に対する請取である。この乱は天文6年から同23年まで断続的に続き,天文16年8月19日付今川義元判物に「去丁酉(天文6)年河東乱入」(六所家蔵旧東泉院文書/県史料2),また永禄元年閏6月23日今川義元判物に「河東一乱」などといわれている(阿野大泉寺文書/県史料1)。北条氏綱は,天文6年2月21日には駿河妙覚寺(現沼津市),2月23日にはさらに大石寺(現富士宮市大字上条)にまで軍勢濫妨停止の禁制を発しており(妙覚寺文書・大石寺文書/神奈川県史資料編3下),同年6月ごろには当地域は北条氏の制圧するところとなった。そもそも,当地域は伊勢宗瑞(北条早雲)が,今川氏から富士下方と興国寺城(現沼津市大字根古屋)を給与されたこと(今川家譜/続群21上)を契機に小田原北条氏との関係を生じ,その後永正16年頃,宗瑞から今川氏親にその支配権が返還されたものといわれ,「河東一乱」もこの由緒に基づくものともいわれる。しかし,天文18年8月には,今川氏が当地域の奪回を試み,この時には武田氏が今川氏を援助したほか,上杉憲政が武蔵の川越城(現埼玉県川越市)を攻めたため,今川・小田原北条氏間に講和がなり,当地域は今川氏の支配下に入った。天文14年12月朔日・天文16年8月19日・天文20年2月5日・天文21年2月29日・天文21年8月25日付などの今川義元判物によれば,「河東一乱」によって退転した寺社領などの所領を再安堵し,課役免除し,あるいは紛失した証文に確認を与えるなど,乱の処理と河東地域の掌握に意を用いていることがわかる(西光寺文書/県史料1,六所家蔵旧東泉院文書・旧池西坊北畠氏文書・旧藤泉院文書/県史料2,旧大鏡坊富士氏文書/県史料1)。天文23年には今川義元の三河出陣の機をうかがい,小田原北条氏が当地域に出兵したが,いわゆる駿相甲同盟が成立した結果,河東は名実共に今川氏の領国化した。弘治2年6月21日今川義元朱印状には,当地域内では寺社の勧進が禁じられていたが,この時下方王社造営のため河東での勧進が許可されている(六所家蔵旧東泉院文書/県史料2)。また,永禄10年11月5日には今川氏重臣葛山氏元が今川氏の命により,吉原湊(現富士市)の渡船破損につき「河東領中并私領共,以壱升勧進可令修理之」と下知している(矢部文書/県史料2)。これらは今川氏の河東支配の進展を物語るものであろう。ところが,永禄11年武田信玄の南進によって今川氏真が駿府を退くや,同年12月24日小田原北条氏は当地域に進出,一時「吉原川東」(当時,富士川河口は現富士市の吉原付近にあった)に竹木・縄などの軍需物資を結集せしめる行動を示したが(矢部文書/県史料2),元亀年間以降は武田氏が河東の支配者となった。天正10年3月織田信長が武田勝頼を破り,徳川家康が駿河国に入部すると,河東地域も徳川氏の管掌するところとなり,松平康親が領した。天正10年8月18日付の徳川家康判物では,武田(穴山)勝千世が「駿州之内,山西并河東津分」を本領として安堵されている(譜牒余録/大日料11-2)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7110705 |





