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初倉荘
【はつくらのしょう】


旧国名:遠江

(中世)平安末期から見える荘園名。遠江(とおとうみ)国榛原(はいばら)郡のうち。平治元年閏5月日付宝荘厳院領荘園注文に「遠江国初倉庄 朝隆卿 六丈細布十三段二丈 四丈白布三百段」と見えるのが初見(東寺百合文書/平遺2986)。この時,宝荘厳院に六丈細布・四丈白布を年貢として進納していた。朝隆はこの年の10月3日死去した正三位前権中納言藤原朝隆で(公卿補任),当荘の預所に任じられていたものであろう。建暦元年7月の年紀を有するものの,おそらく平安末期の実情を示すと思われる八条院所領注文案(東寺百合文書/鎌遺1886)・承安5年6月4日法印権大僧都某置文案(根来要書/平遺3691)および鎌倉末期成立の「大伝法院本願聖人御伝」などによれば,長承元年10月17日,覚鑁が鳥羽上皇の庇護の下で高野山に大伝法院・密厳院を創建した際,上皇と美福門院(鳥羽皇后,藤原得子)から仏事曼荼羅供料(護摩供米)所として大伝法院に寄進され,1,360石4斗(川賃すなわち年貢輸送費を除くと1,120石)の年貢米を上納することになったが,その後,保延元年8月に「皇后宮」(美福門院か)の計らいで宝荘厳院にも上掲の年貢布が寄せられることとなった。当荘は美福門院を本家として成立した皇室領荘園で,院が預所(領家)を任じて経営に当たったが,収取する年貢を割いて大伝法院・宝荘厳院の用途が支出されていたわけである。なお,すでに大治4年3月28日遠江国質侶(しとろ)荘立券文案には,質侶荘湯日(ゆい)郷(現金谷町)のうちに「初倉原」210町が見えている(東大寺図書館本宗性筆唯識論裏文書/平遺2129)。永暦元年に美福門院が崩ずると,息女の八条院(暲子内親王)に他の所領とともに伝領され,後に大覚寺統の有力財源となったいわゆる八条院領の1つを構成した。鎌倉末期の徳治元年,八条院領は亀山上皇から息女昭慶門院(憙子内親王)に譲与されたが,この時の嘉元4年6月12日昭慶門院御領目録案には「庁分」として「遠江国初倉庄 御管領,但亀山院御時,御寄進禅林寺」と見えている(竹内文平氏旧蔵文書/広島県史古代中世資料5)。すなわち,これより先,永仁7年3月5日亀山法皇禅林禅寺起願文によって当荘は南禅寺に寄進された(南禅寺文書)。この寄進では荘務権も寺家に付されたらしい。後年ではあるが,文和3年12月22日付今川範国施行状などでは南禅寺の年貢を「本家米」と呼んでいる(同前)。建武新政が始まると,建武元年7月12日付後醍醐天皇綸旨・建武2年4月22日太政官符などによって「初倉庄内大井河以東,鮎河郷・江富郷・吉永郷・藤守郷等」の4郷が南禅寺領として安堵され,新政破綻後には,建武3年11月27日付光厳上皇院宣・同年12月5日付足利尊氏御判御教書をもって寺領と確認された(同前)。観応の擾乱の時期には,当荘は守護の兵糧料所とされ軍勢に蹂躪されたが,観応3年9月21日付室町将軍足利義詮御判御教書で遠江国守護今川範国(心省)に対し南禅寺への返付が命ぜられた(同前)。貞治6年10月2日には南禅寺領諸荘の伊勢役夫工米・勅事・院事その他の恒例臨時公役を免除する官宣旨が発せられたが,当荘については「初倉庄内江富郷付上泉村・吉永郷・鮎河郷付河尻村・藤守郷」とあって(同前),開発の進展に伴って新しい村落が形成され,江富郷から上泉村,鮎河郷から河尻村がそれぞれ分出している。康暦2年6月11日室町幕府管領斯波義将奉書で当荘の上記の4郷2か村の役夫工米が免除されている(同前)。その後,南禅寺は明徳3年11月9日付で足利義満から当荘内西嶋郷を新たに寄進されたが,応永10年閏10月の南禅寺寺領目録などには見えず,南禅寺領初倉荘は結局4郷2か村に限定されている(同前)。これより先,至徳4年5月7日,南禅寺は当荘の公文分(公文給・4ケ郷公文給分段銭など)を寺家側に没収するなどして荘園支配の基礎を築いた(同前)。しかし,実際の年貢納入は応永10年9月6日の進藤遠江守宛遠江国守護今川泰範(法高)書下に「初倉庄本家米事,百弐拾柒石五斗分……可被納候」とあるように,守護被官の代官請であり(同前),近隣の国人領主層の蚕食を受けて南禅寺の支配は不安定であった。これに対し寺家では嘉吉3年荘内江富郷の検地を行い支配再編を企てたが,文安2年8月16日には荘内の「江富郷・吉永・藤守郷・河尻・上江富(上泉のこと)」の郷村の名主百姓らが連署して寺家に年貢減免を訴えるなど,農民の活動も活発化している(同前)。康正2年5月18日付管領細川勝元奉書によって,当荘は代官請から寺家の直務支配(直接支配)とされた(同前)。しかし,続く長禄年間頃から駿河(するが)国守護今川氏がしばしば遠江に侵入を繰り返し,駿河国と遠江国の国境に位置する当荘もその影響を受け,遠江国守護斯波氏の没落とともに南禅寺の当荘支配も後退した。「蔭涼軒日録」寛正2年10月22日条には南禅寺が室町幕府に,当荘が守護半済とされたことを訴えたことが見えるが(大日本仏教全書),文亀元年8月15日の寺領目録には「遠江国新所郷同初倉庄五ケ郷 守護押領」と不知行の地となっている(南禅寺文書)。当荘は大井川下流域に形成された扇状地性沖積平野の扇端部に位置し,その中世における景観は「海道記」の「播豆蔵(はつくら)の宿を過て,大堰川(大井川)を渡る。此川は川中に渡りおほく,又水さかし,流をこえ島をへだて,瀬々かたかたに別れたり」という記述によく示されているように,多数の水路や島・州によって構成されていた。嘉元3年の江富郷検地目録には堂島・祖母島・小松島・山狐神島・西勝島など島を称する地名が多く見え,また「祖母島上堤添」「西勝島堤添」などの記載もあることから(南禅寺文書),当荘では洪水や海水の逆流による塩害から耕地を守り,排水にも便ならしめるため,島(微高地)に堤を築きつつ耕地の開発が進められたことがうかがわれる。当荘域の景観は大井川堤防の強化と圃場整備によって現在は一変しているが,昭和6年の地籍図「静浜地区土地宝典」などによって堤に守られた輪中集落の景観を知り得る。南禅寺領であった4郷2か村と西嶋郷は,それぞれ現在の大井川町大字藤守・相川・下江留・吉永・上泉・西島および吉田町大字川尻などに比定される。これは,先掲の建武元年後醍醐天皇綸旨に4郷を「大井川以東」とすることに符合し,中世の大井川本流はほぼ現在と同一であったことを示している。初倉の地名については江戸期には初倉村があり,また近代には大字湯日・阪本・船木を含む初倉村があるので,荘域は大井川下流両岸にまたがる島田市南部から吉田町・大井川町にかけての地域に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7113574