100辞書・辞典一括検索

JLogos

61

富士山
【ふじさん】


静岡・山梨両県にまたがってそびえる秀麗なコニーデ(円錐)型成層火山。頂上,剣ケ峰の標高3,775.6mは日本の最高点。頂上の火口は直径500~600m,深さ240mほどであるが,山麓は雄大に広がり,底面の直径は約38kmにも達する。等高線は山体上部ではほぼ同心円を描き,中腹以下では北北西から南南東方向に長軸を持つ楕円形を示すが,これは山腹にある大室(おおむろ)山,長尾山,宝永火口など70を超す寄生火山のうち,その多くがこの方向に集中分布するためである。富士山は構造上からは一般に小御岳(こみたけ)・古富士・新富士の3つの火山に分けて考えられており,また活動史の上からは古期富士第1期,古期富士第2期,活動静穏期,新期富士活動期に分けて考える説がある。小御岳火山は愛鷹(あしたか)火山や箱根外輪山と相前後して噴出した海抜2,400m前後の大火山で,その火口は北の五合目,小御岳神社付近にあった。古富士火山の活動は洪積世末期,箱根の新期外輪山がほぼ完成した時期に始まり,山麓各地に分布する集塊質泥流層と,東麓から南関東一円に厚い堆積をみせる火山砂礫および火山灰層(関東ローム層)とを噴出した。また火山体自体も海抜2,800m前後にまで成長したものとみられる。新富士火山の時代に入ると,それまでの爆発的活動から迸出的活動に変わり,最初に多量の玄武岩質溶岩を噴出した。山麓各地で基底溶岩と呼ばれるものがそれに当たり,西麓では上井手(かみいで)から富士宮付近一帯に流下し,一部は芝川・富士川の谷に流れ込み,南麓では東海道線富士川鉄橋下にまで達し,また南東麓では黄瀬(きせ)川の谷を三島市内まで流下した。その後およそ4,000年にわたる活動静穏期(富士黒土層の形成期)を挟んで,再び火山灰と溶岩との噴出を繰り返し,現在の姿に近い火山体を形成した。歴史時代に入ってからも活動を継続し,10数回の噴火を繰り返したが,そのうち延暦19年,貞観6年,宝永4年の活動を史上の三大噴火と呼ぶ。正史に見える富士山噴火の初見は「続日本紀」天応元年7月6日の条で,「駿河国言,富士山下雨灰,灰之所及,木葉彫萎」とある。「日本紀略」に延暦19年3月14日から4月18日まで噴火したことが見え,翌々21年にも噴火しており,この噴火の降灰によって足柄路が使えなくなり,臨時に筥荷路を開いている。古代の最も大規模な噴火は「三代実録」貞観6年5月25日条で,「駿河国言,富士郡正三位浅間大神大山火,其勢甚熾,焼山方一二許夫,光炎高廿許丈,因有声如雷,地震三度,歴十余日,火猶不滅,焦岩崩嶺,沙石如雨」とあり,また同じとき甲斐国司からも被害の報告があり,溶岩流が甲斐側へ流れ,河口湖が出現し,本栖湖への溶岩の流入があったことを伝えている。貞観6年の噴火では,北西山腹の寄生火山長尾山から青木ケ原に溶岩が流出し,北西麓の剗海(せのうみ)に流入してこれを西・精進(しようじ)の両湖に分断した。また宝永4年の噴火では,山腹に宝永山を生じ,3つの噴火口,特に第一噴火口から多量の火山灰・火山弾を放出し,東麓各地から江戸にまで火山灰を降らせた。現在,富士山は多数の放射状浸食谷によって刻まれつつある。その多くは未だそれほど大きな谷にはなっていないが,西側大沢川の源頭部にある大沢崩れと北側の吉田大沢との2つは例外で,とりわけ前者は長さ約2.3km,幅約500m,深さ約150mもの巨大な崩壊地となっている。この崩壊が発生してから現在までのおよそ1,000年間の崩壊土石量は,約5,000万m(^3)と算定される。北麓の山梨県側には,山中・河口・本栖・西・精進の富士五湖があり,西麓静岡県側にも田貫湖がある。富士五湖は富士火山の噴火に起因した一種のせき止め湖であり,田貫湖もほぼ同様の成因を持つ沼沢地に堤防が築かれて半人造湖となったものである。また山麓には富士吉田,猪之頭,白糸の滝,富士宮,三島市内,柿田川,北郷など豊富な水量を誇る湧水地点が数多くあり,それらの水は上水・工業用水・農業用水・養鱒など多方面に利用されている。白糸の滝では,滝水は不透水層である古富士火山の泥流層とその上にのる新富士火山の溶岩層との境界から湧き出し,落下しており,玉簾を吊るしたかのごときその類稀な美しさから,昭和11年に国の名勝・天然記念物に指定されている。また富士山には「風穴」「氷穴」と呼ばれる大小約80ほどの溶岩トンネル・溶岩洞穴があり,その一部は国の天然記念物に指定されている。そのうち西麓の富士宮市人穴(ひとあな)にある三ツ池穴は最も規模が大きく,トンネルの長さは750mにも達し,南西麓の富士宮市万野(まんの)にある万野風穴(長さ570m),万野窓穴(360m)などがそれに次ぐ。そのほか県内の主な洞穴には,三ツ池穴の近くにあり,富士講の開祖角行真人(長谷川角行)が修法した所としても知られる人穴(長さ70m),その近くの姥穴(170m),新穴(100m),東南麓の御殿場市駒門の駒門風穴(291m),三島市の三島溶岩トンネル(210m)などがある。なお富士山は昭和27年指定の国の特別名勝であり,昭和11年には富士箱根伊豆国立公園(伊豆地区は昭和30年に追加)に指定されている。富士山は,不尽山・不自山・不二山・布士山・布自山・福慈岳・富士嵩・富士岳・富士嶺・富嶺・富慈峰・富士峰・富士高嶺などとも書き,古くは富士山と書いても「ふじのやま」と訓ませた。古代には「常陸国風土記」に「古老の曰へらく,昔祖神の尊,諸神の処に巡り行でまししとき,駿河の国の福慈の岳に到りまして,卒に日の暮に遇ひ,寓宿を請欲はしたまひき」とあり,福慈岳(富士山)の名が見える。「万葉集」にはよく詠まれ,なかでも山部赤人の「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ 不尽の高嶺に雪は降りける」の歌は特に有名。「万葉集」巻14の東歌では駿河国の住民のうたった短歌5首のうち4首までが富士山のものである。平安初期には都良香の漢文体伝奇「富士山記」が生まれ,「竹取物語」の重要な素材ともなった。「古今集」巻11読人しらずの「人知れぬ思ひを常にするがなるふじの山こそわが身なりけれ」をはじめ,勅撰・私撰の和歌集に収められた詠歌は数多い。鎌倉期には源頼朝が富士山麓でたびたび巻狩りをしているが,室町期の永享4年,将軍足利義教が鎌倉公方足利持氏威嚇のため富士遊覧と称して駿河まで下向し,その時の模様が,随行した飛鳥井雅世の「富士紀行」や,堯孝法印の「覧富士記」などによって知られる。その時,将軍義教は「み(見)ずばいかで思ひし(知)るべき言の葉も及ばぬ富士とかねて聞きしを」と詠み,摂待役の今川範政も「君が見むけふの為にや昔よりつもりはそめしふじの白雪」と返している。室町期のころから富士山への登岳信仰が盛んになり,大宮(現富士宮)か村山あたりで宿泊して登山したので,村山には道者たちが泊まる宿坊ができ,大鏡坊・辻之坊・池西坊の村山三坊が有名で,これは修験道でも知られ,大きな力を持っていた。元亀・天正年間,行者長谷川角行が富士人穴の洞穴で修行し,やがて富士講が組織され,近世富士登山の主流となる。富士講は村山修験の勢力の強い表口(駿河側)を避け,江戸を中心とする関東に広まったという地理的関係もあって,裏口(北口甲斐側)が主として用いられたため,大宮・村山の繁栄が裏口に移ることになった。富士講は江戸府内の社寺に小富士を築いて拝し,手軽に信仰を集めて繁栄した。富士山麓の原野は通称富士野と呼ばれ,近隣百姓たちにとって,燃料や肥料・屋根葺材料などをとる入会地として重要であった。しかし富士山麓に勢力を持つ村山三坊が百姓たちの入会地利用を圧迫することがあり,明暦2年,粟倉・山宮・貫戸・両山本・岩本・天満(間)・入山瀬・久沢・厚原・伝法・大淵・鮫島・中丸・川成島・五貫島・柳島・前田・宮下・藤間・宮嶋・両横割・森下・蓼原・本市場・平垣・水戸嶋・森島・柚木・中島・平井島・松本・松岡・若宮・下小泉・源道寺・黒田・野中・上小泉・大岩などの村々が入会地の利用に対しての訴えを幕府に起こし,その結果,村山三坊の伝統的権威は否定され,百姓たちの入会地利用が全面的に認められた(富士山麓史)。富士登山は,明治以後,スポーツとしての近代的登山へと大きく変貌したが,7世紀の役行者小角以来修験道の霊地と目されてきただけに,今も白い浄衣に手甲・脚絆,金剛杖を手にした行者の登拝も跡を絶たず,頂上の噴火口を一巡する約2.6kmの「お鉢めぐり」,中腹の山腹を一巡する「お中道めぐり」に,往時の修行の名残をとどめる。富士山への登山は,古来,吉田口・須走口・須山口・大宮口などから行われたが,最近五合目まで表富士周遊自動車道路・北富士周遊自動車道路が開通し,山麓からの登山者はほとんどいなくなった。五合目以上の登山路は34°に及ぶ急勾配で,合目ごとに室(むろ)の設備はあるが,昔ながらの湧水,金明水(旧火口―小内院―上部)・銀明水(駒ケ岳下)が人気を集めている。富士山麓が軍隊の演習地として使われた最初は大正5年で,富士山東麓の御殿場地方,滝ケ原・板妻・駒門に重砲兵等の実弾射撃訓練の演習場ができた。昭和14年のノモンハン事件において,日本軍(関東軍)がソ連の戦車隊に大敗を喫したのち,ノモンハンと富士山西麓が地形的に似ていることから,戦場部隊の実戦訓練場として白羽の矢が立てられ,同16年には陸軍少年戦車学校が上井出に移転し,さらにグライダー基地も造られるなど,山麓は軍事色一色に塗りつぶされた。第2次大戦後,西麓は地元に返還されず開拓地として利用されることになったが,東麓(東富士演習場)はいったん地元に返還されたものの,すぐ米軍駐屯キャンプとして接収された。昭和25年1月1日以降は演習区域も拡大されて地内の耕作・立入りが全面禁止になり,特に朝鮮戦争の勃発した昭和25年にはノースキャンプ(滝ケ原),ミドルキャンプ(板妻),サウスキャンプ(駒門)の3つができ,関連市町村は11か町村にも及んだ。キャンプ周辺の風紀問題を含め,基地問題が持ち上がり,昭和45年の第2次使用協定により,キャンプ・フジの施設を除き米軍から返還され,地元民との賃貸契約による演習場となっている。現在山上の南東にレーダーを備えた気象庁富士山山頂観測所があるが,これは最初西南隅の剣ケ峰にあった。富士山の県境(静岡・山梨両県)は一応山頂を横切る線とされているが,八合目以上は浅間神社(静岡県富士宮市)の境内なので,静岡県側には同県に所属させるべきだとの主張があとを断たない。浅間神社は富士山の神威を仰ぎまつる神社で,祭神は木花開耶比咩命,本宮を中心として富士山の周辺および富士山を望見できる地域に数多く鎮座し,その分布は静岡県が最も多く,山梨・千葉・東京・神奈川・埼玉・群馬・栃木・長野・愛知の各都県に分布する。霊峰として日本人の崇敬を集め,文学や絵画に幾多の作品を生み,「万葉集」以来,各時代に名作を残した。江戸期には石川丈山が「仙客来遊雲外嶺 神竜栖老洞中淵 雪如素煙如柄 白扇倒懸東海天」と賦し,松尾芭蕉は「霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き」,与謝蕪村は「不二ひとつ埋み残して若葉かな」と吟じた。狩野派・住吉派の画師が好画材として描き,葛飾北斎の浮世絵「富岳三十六景」は有名,さらに横山大観・梅原竜三郎にも名画が多く,古来,日本を代表する名山と考えられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7114001