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本通
【ほんとおり】


旧国名:駿河

(近世~近代)江戸期~現在の町名。はじめ1~9丁目,大正4年からは1~10丁目がある。明治5~22年までは静岡を冠称。江戸期は1~9丁目ともそれぞれ駿府城下96か町の1つ。明治22年からは静岡市の町名。駿府城の南西に位置する。大正4年本通川越町が本通10丁目となる。町名は,かつてこの通りが東海道往還であったが,慶長14年駿府の町割りに際して開かれた新通筋が東海道往還となったことにちなむ(駿河記)。なお町名は「駿国雑志」には「もととほり」と振り仮名が付されており,天明8年の司馬江漢の「西遊日記」にも「元通」とあり,江戸期は「もとどおり」と読んでいたと考えられる。1~5丁目は豪商が軒を連ねた商人街で,6~9丁目には寺院が多かった。7~8丁目は比丘尼が多数居住したことから比丘尼町とも称された。6丁目付近は駿府の有名な芸人が多く,玉徳という東海道筋で人気のあった義太夫語りや,常盤津・清元・長唄の師匠たちがいた。この風潮の遠因は,町内にある時宗一華堂長善寺に当時鐘打と称された遊行僧の集団が住みつき民衆とともに踊念仏を修行したことによるという。また同寺境内では江戸初期以来,毎年2月の初午には「チャンチャカドコドン」といわれる子供の踊念仏が昭和16年まで行われた(本通)。同寺は駿河国内の遊行僧に命令を出す触頭の寺院であった(駿河国風土記)。若狭屋儀助宅には町内を横切る愛染川の水を利用した水車があり,米つきに使用された(駿国雑志)。7丁目の極楽寺は境内の金毘羅大権現社に多くの参拝客を集めるとともに,府内随一をうたわれた枝垂桜に夜桜見物の客を集めた(本通)。1丁目には元禄年間活躍した豪商松木新左衛門や宝暦年間駿河小早御極印船仲間の1人青茶屋善兵衛,2丁目には清水~江戸間の海上運送の独占権を握っていた駿河小早御極印船仲間桑名屋伝左衛門が居住した。慶長9年諸道におかれた一里塚は9丁目の修福寺前に築かれたというが(静岡県歴史の道調査報告書―東海道―),天保年間にはその跡は8丁目の人家の裏にあった(駿河国新風土記)。なお現在は8丁目内の歩道に一里塚址の石柱が建てられている。貞享3年の本家・丁頭家・借家数は,1丁目11・1・5,2丁目13・1・6,3丁目18軒半・2・4,4丁目21・1・借屋なし,5丁目22軒半・2・14,6丁目31・1・15,7丁目37軒半・1・20,8丁目36・1・16,9丁目22・1・4(府内時之鐘鋳直申ニ付入用集銭帳)。元禄5年の家数・人数・丁頭名は,1丁目12(うち丁頭屋敷1)・70・清兵衛,2丁目14(うち丁頭屋敷1)・131・伊兵衛,3丁目20軒半(うち丁頭屋敷2)・157・彦左衛門と忠兵衛,4丁目22(うち丁頭屋敷1)・148・作左衛門,5丁目24軒半(うち丁頭屋敷2・明屋敷1)・144(うち座頭1)・五郎兵衛と三郎右衛門,6丁目32(うち丁頭屋敷1・明屋敷5)・178(うち座頭3・山伏2・瞽女18)・与兵衛,7丁目38軒半(うち丁頭屋敷1・明屋敷1)・238(うち山伏14・座頭2・比丘尼26)・万右衛門,8丁目37(うち丁頭屋敷1・明屋敷6軒半)・205(うち出家5・比丘尼14・山伏15)・忠兵衛,9丁目23うち丁頭屋敷1・112(うち山伏1・座頭1・比丘尼1)・五兵衛(元禄5年申2月駿府町数并家数人数覚帳)。元禄年間創設の駿府定火消では4~6丁目まで井筒組,7~9丁目まで輪違組に属し,出人足は83人,文政4年創設の町方百人組合火消では府中4組のうち1~2丁目まで北組,3~9丁目まで西組に所属(旧版静岡市史)。天和3年茶町2丁目からの出火では1丁目は53軒を焼失した(静岡市史)。天保13年の町絵図によれば,各町とも伝馬町人足・定火消人足・百人組合火消人足などを負担している。弘化~嘉永年間の軒役・戸数は,1丁目11間役・13,2丁目12間役・13,3丁目18間役・28,4丁目21間役・38,5丁目22間半役・32,6丁目31間役・53,8丁目36間役・59,9丁目22間役・36(駿河国雑志)。当地は安倍川に隣接しているためしばしば水害を受けたが,なかでも文政11年6月の水害では多くの被害があった。寺社は,2丁目に八朔稲荷社,3丁目に天台宗快長院,6丁目に真宗大谷派西敬寺・時宗一万堂長善寺,7丁目に浄土宗弘願寺・同宗浄国寺・同宗養国寺・同宗極楽寺,8丁目に曹洞宗浄元寺・浄土宗天応寺・同宗称億寺・当山修験花京院,9丁目に時宗修福寺がある。明治11年静岡第三十五国立銀行(現静岡銀行)が2丁目に設立された。3丁目出身の藤波甚助は明治16年静岡屋形町に私立静岡英学校を開くとともに静岡市史編纂の史料収集に尽力した。大正3年の安倍川の大洪水で,3~9丁目は大きな被害を受けた。大正4年の戸数783・人口3,693。同年本通川越町が本通10丁目と改称。同13年に8~9丁目にそれぞれ幸町の一部を編入。昭和20年1丁目に両替町1丁目の一部を,4丁目に梅屋町の一部を,5丁目に寺町1丁目の一部を編入し,4丁目の一部が梅屋町,5丁目の一部が大鋸町・大工町となる。昭和11年本通は中町から弥勒町まで従来の5間幅から12間(22m)へと道幅を拡張,安倍川橋に直結して再び要路の役割を果たすことになった。昭和25年の世帯600・人口3,110。同47年頃の本通684戸のうち商店187・木工所および工場51・事務所33・住宅315などでオフィス・商業・軽工業および住宅の混在した町となっている(本通)。近年人口の減少が著しい。昭和49年1丁目の一部が呉服町1丁目・両替町1丁目,2丁目の一部が両替町1丁目・上石町・本通1丁目,3丁目の一部が本通2丁目・上石町となり,同時に1丁目に本通2丁目・両替町1丁目の各一部,2丁目に本通3丁目・上石町の各一部を編入。同51年10丁目に本通西町の一部を編入。4丁目には現在,武者絵に特色をもつ駿河凧の伝統を継ぐ唯1軒の店,通称凧八がある。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7114231