東阿知和
【ひがしあちわ】
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旧国名:三河
矢作(やはぎ)川左岸,前田川と青木川の合流点以東の青木川流域に位置する。阿知和の地名は,かつて三河国造知波命の住地であることに起因という(旧岡崎市史)。平城京址出土木簡に「鴨田郷厚石里」とあり,阿知和を指しているとの解釈がある。松橋1~3号墳があったが,壊滅。弘長2年三河国守護職足利義氏の孫頼氏が阿知和郷を瀧山寺に寄進(瀧山寺文書/岡崎市史6)。
【東阿知和村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【東阿知和(近代)】 明治22年~昭和30年の大字名。
【東阿知和町(近代)】 昭和30年~現在の岡崎市の町名。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7122323 |