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有丸荘
【ありまるのしょう】


旧国名:伊賀

(中世)鎌倉期から見える荘園名。伊賀国山田郡のうち。山田有丸荘・有丸・有丸名・有丸保・山田荘とも見える。有丸は別名設立を申請した人物の仮名であろう。平家没官領として源頼朝が知行していたが,後白河上皇の要請で阿波・広瀬両荘とともに東大寺惣大工陳和卿に与えられた(東大寺要録)。建久元年12月12日の源頼朝下文案に「伊賀国山田郡内有丸并広瀬・阿波杣山」とあるのが初見。この下文により地頭職も停廃され,一色不輸の所領となる(松雲公採集遺編類纂116/鎌遺497,東大寺要録/鎌遺501)。当初は「有丸名」ないしは「有丸保」と呼ばれたと考えられるが,建久6年に宣旨により田畠の立券がなされ,同時に和卿の寄進にもとづき,年貢を東大寺浄土堂不断念仏用途料にあてることが定められた(東大寺文書/鎌遺1236)。田地は建仁元年3月日の在庁官人等解案には「有丸名廿七町三段大」,また建保4年6月日の留守所下文案では「有丸名四十八丁六反大」と見える(三国地誌/鎌遺1191,百巻本東大寺文書/鎌遺2240)。これらの田地は別名によくみられることであるが,郡内に散在していたと考えられる。建久8年6月,他の重源ゆかりの寺領や堂舎とともに重源より東大寺東南院院主定範律師に譲られ,以後領家職は東南院に相承される(鎌遺920)。建仁元年,在庁官人らは山田郡内の念仏堂(浄土堂)荘の停廃を求め,東大寺との間で相論が起こったが,7月の記録所勘状は東南院と和卿の知行を認めている(鎌遺1236)。元久3年に至り,陳和卿が重源に敵対し,当荘などの押領を企てたということで,彼の知行が停止され,荘務権は領家の東南院に属することとなる(山城随心院文書/鎌遺1613)。国衙側の反発にもかかわらず,まもなく寺領としての確立をみたようで,「山田庄」とも呼称される(百巻本東大寺文書/鎌遺2240,東大寺要録/鎌遺2787・3427)。鎌倉末期の元応元年5月,友尾(生)住人日野地左衛門次郎久行とその子又二郎等が「武家人」と号して荘内に乱入し,神人の定広・春房等を打擲する事件が起こった。寺家ではこれを六波羅に訴えたが,追捕の沙汰はなく,乱入はその後も続いた(東大寺文書10/大日古)。さらに南北朝期に入ると,北伊賀悪党の高畠(服部)右衛門太郎入道持法や村木彦太郎らの押領が繰り返される。追捕を要求する東大寺の訴えも効果はなく,彼らは預所を号して荘内に入部し,年貢を奪い取るなどの濫妨を行った(東大寺古文書/大日料6-6,東大寺文書10/大日古)。室町期以降になると,東大寺領関係の文書に当荘の名は見えなくなり,退転していったと思われる。ただし,安土桃山期と推定される年月日未詳の大進殿才々分注文には「いかのくに山田ありわう名」と見える(東大寺文書)。現在の大山田村内と考えられるが比定地は特定できない。




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「角川日本地名大辞典」
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