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五十鈴川
【いすずがわ】


伊鈴川・御裳濯(みもすそ)川・宇治川・神路(かみじ)川ともいう。宮川水系に属する。水源は2つで,1つは伊勢市内宮神域南部の神路山から高麗広(こうらいびろ)を流れ,1つは東部の島路(しまじ)山・逢坂(おうさか)山から流れて,内宮の御手洗(みたらし)場の上流で合流する。さらに内宮境内を流れ,宇治橋から今在家・中之切・浦田町の東を北流し,中村・楠部(くすべ)・鹿海町を経て2つに分流する。1つは北流して汐合(しわい)橋から今一色町で勢田川と合流,他方は東流して二見町江から伊勢湾に注ぐ。1級河川。流長10.2km。御裳濯川は倭姫が裳裾の汚れをこの川で洗ったゆえの名と伝える(倭姫命世記)。また,水源が2脈あるので本流を御裳濯川,内宮と神路山との間を流れる川を五十鈴川とする説もあるが,後世の付会。歌枕として多くの詠歌がある。「君が代は尽きじとぞ思ふ神風や御裳濯川の澄まむかぎりは」(後拾遺集,経信),「神風や五十鈴の川の宮柱幾千世すめと建てはじめけむ」(新古今集,俊成),「五十鈴川頼む心し深ければ天照神ぞ空に知るらむ」(後鳥羽院集)。その清流は内宮の御手洗となって今も参詣者に親しまれている。古くは,「日本書紀」神代下に猿田彦が天鈿女に「吾則応到伊勢之狭長田五十鈴川上」と言ったこと,垂仁天皇25年3月に天照大神が「五十鈴川上」に鎮座したこと,雄略天皇3年4月に𣑥幡皇女が「五十鈴河上」で「経死」したことがみえる。これらの記事は後世の多くの書物に引用されている。「皇太神宮儀式帳」は内宮の鎮座地を「度会郡宇治里伊鈴河上之大山中」としており,また,「延喜式」には「宇治郷五十鈴河上」とみえる。「太神宮諸雑事記」には天平宝字6年9月15日に五十鈴川が洪水になったことがみえる。また,天皇の宣命は「天皇我詔旨止掛畏岐伊勢乃度会宇治乃五十鈴乃河上」ではじまっている(続日本後紀・三代実録)。中世に入ると,「吾妻鏡」寿永元年2月8日条に,前年正月熊野山衆徒が伊雑宮に乱入して御殿を破損した際,御神体を「五十鈴乃河乃畔」に仮奉還したことがみえる。「太平記」は仁木義長の悪行の1つとして,「五十鈴川ヲセイテ魚ヲ捕」ることをあげている。なお,鎌倉期の「愚管抄」や織豊期の「神祇正宗」など,「日本書紀」の垂仁天皇25年3月条を引用した書物が多くみられる。上流の渓谷には,淵や奇岩・名石(鰒石・御舟岩・鏡岩など)が多く,ハイキングコースとなっている。神域の御手洗場付近には,マゴイ・ヒゴイ・ウグイなどが群がり,そこから宇治橋にかけての流れは美しい。宇治の町を過ぎ,中流の浦田橋付近の河岸は近年整備され,五十鈴公園,県営陸上競技場・体育館などがあり,昭和50年三重国体の主会場となった。ここから朝熊(あさま)山に登る伊勢志摩スカイラインと五十鈴トンネルを通り島路川沿いに志摩郡磯部(いそべ)町に通ずる伊勢道路とに分かれる。競技場の北に御側(おそば)橋があり,これは月読宮(つきよみのみや)から中村町を通って当川を渡り宇治館(うじたち)町に至る古い参宮道の橋である。20年ごとに行われる遷宮の用材は,外宮では宮川から陸揚げされ伊勢(山田)の市内を御木曳車で運ばれるが,内宮では川引きにより当川をさかのぼって運ばれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7125154