100辞書・辞典一括検索

JLogos

46

上野城
【うえのじょう】


江戸期藤堂氏32万石の支城。上野市丸之内・東町・中町・西町・幸坂町に所在。内堀以内の本丸と隣接地の一部が,昭和42年12月国史跡に指定。上野盆地北部の台地端部(178m)に築かれた平山城。規模は東西約980m・南北約750mであるが,外堀はまったく埋められ,市街地となる。現在二之丸の東部には津地方検察庁上野支部・津地方裁判所上野支部・上野郵便局,本丸と二之丸との間の芝之手には,県上野庁舎・上野市役所・西小学校・県立上野高校があり,二之丸の西部は県立上野高校グラウンド・市立崇広中学校,二之丸の南部は,東西に近鉄伊賀線が縦断し,上野市駅・上野電報電話局・産業会館・商工会議所をはじめ商店と住宅が立ち並ぶ。近世城郭としての始まりは,天正13年大和の事実上の支配者であった筒井定次が豊臣秀吉により12万石で伊賀に移封され,入国後間もない頃の築城による。築城場所は,伊賀盆地北部の交通の要衝でもある高台で,伊賀の小土豪の拠点ともなり,織田信長の伊賀侵攻(天正の乱)によって焼失した平楽寺・薬師寺の旧地であった。本丸は北側に表門を置き,南を裏門とし(高山公言行録・高山公実録),3層の高楼と内外の曲輪(伊賀旧記)があり,二之丸の位置は明らかでないが,三之丸を北西側に配置し,全体を石垣と堀で固めたもの。3層の高楼は天守で,本丸東の高所に築かれ,天守台跡が今も残る。入国後,定次は名張に松倉豊後重政,阿保に岸田伯耆,平田に箸尾宮内を配置し,慶長2年から7年にかけては,多羅尾道賀に検地をさせるなど統治に努めたが,家臣の分裂による乱脈な内政もあって,慶長13年6月には改易される。同13年8月には徳川家康に近かった藤堂高虎が,伊予の宇和島から伊賀一国と伊勢中部を合わせ20万石余の大名として移封される。関ケ原合戦後の大坂方に対する徳川家康の軍略であった(累世記事)。同16年正月には,高虎が本拠とした津城とともに大規模な改修が始まる。石垣の石材は東方の荒木・寺田・中瀬からと,西方の長田に求められた(宗国史)。本丸は筒井定次築城の本丸を西方へ拡張し,西側には総高約26mの高石垣を築き,内堀を巡らした。本丸南下方には扇之芝・芝之手と呼ばれる芝地を広く取り囲んで二之丸とし,その外周には土居と堀を巡らし,南面して東西2つの大手門が設けられ,櫓を各所に置いている。本丸の北西隅には5層の天守が造営されたが完成近い同17年9月,大風雨により崩れ落ち,多数の死傷者を出した。その後は,同19年の大坂冬の陣,元和元年の夏の陣のため造営の余裕もなく,天守は再びみられなかった。大坂落城の同年,藤堂高虎は5万石加増されて27万石,同5年には32万石余となった。城には同年,高虎の弟高清,後には藤堂采女家の代々世襲による城代が置かれ,それを助ける家老・加判奉行・郡奉行・郡代官などの機構により統治された。本丸東部に当たる筒井古城の旧本丸の建物は城代家老の屋敷として改修され,御城・公館と呼ばれ,二之丸北西部は藩主の伊賀における邸とされ,御屋舗(敷)・御殿と呼ばれた。城郭の建物は延宝頃には,御屋敷・櫓10・西と東の大手門・厩・永蔵・武具蔵・薬蔵・塩硝煮所などがあり(統集懐録),寛延4年には,東大手・西大手・北谷口・京口の四門・京橋・公館・穀倉3・軍器庫・評定屋舗・馬屋・作事屋があった(宗国史)。これらの建物は暴風雨などによりたびたび損壊しているが,特に宝永4年10月の大地震では御城(公館)裏門前東の石垣の崩壊,玄関・広間・腰掛・勝手の大破,御屋敷の台所等の小破,東大手見付桝形の石垣の外堀への崩落,塩硝蔵・玉蔵の破損などが記録されている(永保記事略)。また,嘉永7年6月の大地震では,升形の石垣・厩塀・長書院などが大破している(庁事類編)。明治2年の版籍奉還,同4年の廃藩置県とともに当城には,津藩庁・津県庁・安濃津県庁・三重県庁のそれぞれの上野支庁が置かれ,主要建物は破却されていった。同7年の博覧会後,御殿は太鼓門・下之段米蔵とともに払い下げられ,同20年には東大手門,同40年には西大手門が解体され,大正5年には武庫3,米倉(長倉)2だけとなっていた。現存の建物には,県立上野高校内の武具蔵の1つである手当蔵と,文政4年4月に津の藩校である有造館の支校として創設され,市立図書館に転用されている崇広堂(昭和5年11月に国史跡)の講堂と付属建物の一部がある。天守には昭和10年10月に落成した復興天守閣の伊賀文化産業城(木造)がそびえる。外堀も京橋から西大手一帯が明治6年から10年にかけて埋め立てられ,順次,姿を消した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7125418