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鹿高
【かだか】


旧国名:伊賀

(古代~中世)平安期から見える地名。伊賀国名張郡周智郷のうち。「三代実録」貞観15年9月27日条に「鹿高神」(現在の名張市矢川・春日神社)が見え,鹿高の地名は平安初期にさかのぼる。長久2年3月5日の藤原実遠公験紛失状案は実遠の私領矢川村の南限を「鹿高山」(その後の史料では加陀賀明神ないしは鹿高)と記し,また寛治5年10月15日の東大寺牒案には「坂(板)蠅杣内西鹿高脇斎宮帰京大路田畠」とあるので,現在の名張市安部田・矢川より南の宇陀川上流部をさし,左岸は西鹿高と称されたと見られる(東大寺文書/平遺588・1300)。また11世紀後半には「鹿高条」とも呼ばれている(東大寺文書/平遺補288)。板蠅杣の南界とされた斎宮上路が通っている西鹿高では川沿いに田畠が開かれたが,延久のころより,その帰属をめぐって,杣内とする東大寺と公田とみなす国衙がたびたび相論している。判明するだけでも寛治6年と永長元年の2度にわたって,田畠3町5反の所当官物を免除する国判が東大寺に与えられ,国衙側の執拗な反撃にもかかわらず,12世紀末には黒田荘の一部とみなされるようになる(東大寺文書/平遺1710・2664)。しかし,国衙側は鎌倉初期においても係争地であった「鹿高脇」を黒田本荘や出作と区別している(百巻本東大寺文書/鎌遺2243)。山間部の常として,この地においても他領との境相論は避けがたく,正治元年には「唐懸」の地をめぐって,西隣の竜穴寺(室生寺)領大和国長瀬荘との相論が起きる。摂関家政所を舞台として訴陳が番えられたこの相論では,大和と伊賀の国堺が重要な論点であったが,長瀬荘側は「鹿高」(鹿高堰)を,一方黒田荘側はより上流の「田野木津」をそれぞれ国堺と主張した。しかし,結局は証拠文書を提出することができた東大寺・黒田荘側の主張が認められたようである(東大寺文書/鎌遺1073・1075,百巻本東大寺文書/鎌遺1132)。この後,西鹿高では田畠の開発が進み,鎌倉末期には「鹿高脇」に18町の田地があったことが知られる(東大寺文書)。一方,宇陀川右岸では平安末期から次第に鹿高の地名は用いられなくなったようである。地名は近世の安部田村鹿高に継承される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7125997