100辞書・辞典一括検索

JLogos

74

北町②
【きたまち】


旧国名:伊勢

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治前期は四日市を冠称することもある。江戸期は四日市町の1町。四日市町の北西に位置し,南は南町と接する。東海道に沿う。古くは北市場と称し,また会下とも呼ばれ,近世に入って寛文3年から北町と称するようになった。北市場の名は,文明2年浜田氏が浜田城を築いた際に領国経済の発達を促すため東海道を城の東方に移し,四日市庭浦(州浜・四日市湊)に通じる東西方向の道路と交差させ,その四つ辻を中心に南市場・北市場・縦市場を開設したことによるという。当時,浜田忠秀(親綱か)はこの地にあった曹洞宗東溟山建福寺を保護し,浜田家(4代)の香華所としたため,当地の大半は寺領が占め,周囲8町・7,600坪余の寺領を持ったと伝えられる。建福寺は末寺24院を有して学寮を設け修行させたので当地を会下と称した。正式に北市場と呼ばれるのは,弘治・永禄年間のことという(昭和5年版四日市市史)。江戸期に入ると四日市町は東海道の宿場町として発展し,北町と称するようになった。なお,建福寺北側の地には10軒の家があったことから文化年間頃から十軒家町とか十建町と通称され,天保年間には十軒屋・伝馬町・建福寺町の3町に分けて呼ばれた(同前)。町の面積と伝馬については,寛永13年五町米盛によると4町9反余・伝馬数19匹,慶安2年五町米盛によると5町余・伝馬数32匹3分の1とあり,南町に次ぐ伝馬の数を示している。伝馬ははじめ人別に賦課されていたので町による負担の差が大きく,寛文10年から各戸の持高に賦課する高掛りに変更され,当町は35匹を47軒の伝馬役の家で勤めることになる。御用飛脚は北町の園田庄九郎家が代々勤めた。代々一番本陣を勤めた清水太兵衛家は南北両町の接する札の辻の西北角(北町の南端)にあり,明治10年まで本陣として栄えた。また清水家の西隣に問屋場が,辻の西南角に脇本陣の帯屋があった。御茶壺の宿泊の際には当町は案内近番を勤め,また毎年4月と8月の二条城や大坂城の大番衆交代の通行の際にも出迎え案内役を勤めた。旅籠は当町と南町に集中し,両町は旅籠屋町とも通称される。旅籠数は,天和3年には四日市町65軒のうち23軒,弘化3年に51軒。飯盛女もおり,弘化3年の四日市宿飯女抱旅籠軒数調べによると,当町の旅籠屋51軒のうち1人抱13軒・2人抱22軒・3人抱8軒・4人抱5軒と記され,明治5年の芸娼妓解放令では当町で161人を数えた。文化7年の四日市町の改革では,各町を7組に分けたが,当町は三滝川対岸の川原町と組んで北町組を組織し,町代役2名を出した。7月26・27日に行われる諏訪神社祭礼(四日市祭)には,七福神の大山を出し,花納式を行った。安政元年の大地震では当町の東海道沿いの家屋は将棋倒しになり,また大火災を起こして被害は甚大で,潰焼失58軒(ほかに土蔵10・物置56),焼死者68と記される。本陣清水太兵衛の日記には,北町新竹屋慶助料理場より出火,東海道西側田端屋より鶴屋まで104間半,東側種屋より長崎屋まで95間余の範囲が延焼したとある。明治9年の伊勢暴動では建築中の区裁判所が焼打ちにあった。その焼跡には監獄や四日市警察署が新築され,同15年から同18年にかけて四日市学校の校舎を新築した(中部小学校百年史)。同21年の戸数177・人口1,030(昭和5年版四日市市史)。同22年四日市町,同30年四日市市に所属。町制施行後の町会議員の選挙区として北町は共同会に属した。戸数・人口は明治43年117・1,160(人口は十建町を含む),大正7年113・729,昭和3年の世帯数110・人口652。大正11年町内に第二公設市場を建設し10店舗が入る。昭和14年には国道1号が拡幅された。同33年の卸売店数12・小売店数23。同38年まで土地公称四日市の一部で,公称町名であったが,同年住居表示を実施し,四日市(土地公称)の一部で,当町と久六町・竪町・十建町・八幡町の各一部にあたる地域をもって北町とした。世帯数・人口は,昭和34年89・438,同50年216・775。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7126418