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桑名藩
【くわなはん】


旧国名:伊勢

(近世)江戸期の藩名。伊勢国桑名郡桑名(桑名市)周辺を領有した譜代中藩。居城は桑名城。文禄4年桑名2万5,000石の城主となった氏家行広は慶長5年の関ケ原の戦で西軍に属して除封となり,翌6年上総国大多喜から本多忠勝が10万石で入封し,立藩。これ以前の桑名は,古くから十楽の津と称されて海陸交通の要衝として栄えていたが,永禄10年織田信長の伊勢侵攻によりその支配下に入り,天正2年の長島の一向一揆攻略後,同2年滝川一益に北勢5郡を支配させた。本能寺の変後,豊臣秀吉が天正11年織田信孝・柴田勝家と同盟した一益を攻略して信長の二男信雄の支配とし,天野雄光(景俊)が桑名の地を預かった。信雄の下野国移封後,天正18年北勢5郡は豊臣秀吉の甥秀次の支配下に入り,桑名は服部采女一正が治め,同19年一政が松坂に移ると,秀次の臣一柳直盛が伊勢神戸から桑名に入り桑名城を築いた。文禄4年秀次の自害後は氏家行広が桑名城主となり,そして慶長6年徳川四天王の1人本多忠勝が入封するのである。ここに江戸期の桑名藩が成立することになる。忠勝の所領10万石は桑名・員弁(いなべ)・朝明(あさけ)・三重の4郡のうちである。忠勝はあまたの軍功により5万石加増の仰せがあったが固辞し,二男忠朝が大多喜城5万石を襲封した。忠勝は入封後,桑名城下の割替を行い,渡船場であった町を城下町に改造し,桑名の町並みの原型をつくった。城は一柳直盛が神戸城より移築した天守閣があったが,忠勝は入封3年目から揖斐(いび)川に接した南岸に移築し,慶長15年,10年を要して天守・二の丸・三の丸・朝日丸・諸家中屋敷などが完成した。忠勝は慶長14年家督を嫡子忠政に譲り,忠政は大坂の陣に出陣,忠政の子忠刻は徳川家康の孫千姫に望まれて婿となり化粧料1万石が編入された。忠政は大坂の陣の功により,元和3年5万石を加増されて播摩国姫路へ移封し,その跡へ山城国伏見から家康の異父弟松平(久松)定勝が入部し,桑名・三重・員弁・朝明4郡で11万石を領知した。同4年城を拡張し,搦手約800間の石垣を水中に築造。定勝は同7年長島城7,000石を加増されたが,寛永元年定勝の跡を継いだ二男定行は弟定房に長島7,000石を分知。定行の時,町屋川から取水して水道を設け,三崎水田・船場町・今一色などが開発された。定行は寛永11年伊予国松山に転封し,代わって定勝の三男(定行の弟)定綱が美濃国大垣6万石より入封して桑名11万石の藩主となった。定綱(~慶安4年)の跡は定良(~明暦3年)・定重(~宝永7年)と在封した。寛文4年の藩領は,桑名郡53村2万9,115石・員弁郡63村4万1,216石・朝明郡34村2万7,777石・三重郡17村1万4,890石,ほかに新田高1万1,690石があり,この内訳は桑名郡23村4,854石・員弁郡10村4,980石・朝明郡19村2,778石・三重郡8村1,077石(寛文朱印留)。藩の職制は,年寄(家老・中老)の下に用人・各奉行が居り,郷方支配には郡奉行の下に代官・大庄屋・庄屋,町方支配には町奉行の下に町年寄がいた。家臣団数は,寛文10年に50石以上の知行取り314人(桑名藩分限帳・物語藩史)。定綱は植林・果樹栽培などの殖産興業や新田開拓に努め,員弁郡の笠田・平野・大泉,桑名郡の上之輪・太一丸・八左衛門・赤須賀の各新田が開発され,明暦2年には表高11万3,000石に対し新田高4万石余が加わった。定綱は文武両道に秀で「老子安抄」「政余彫玉」「牧民後判」などの著書があり,また朝日丸に学校を設けて藩の子弟の教学を奨めた。定良の代の延宝6年に行われた戸口調査によれば,郷中高持百姓の家数6,829・人数5万9,189うち男3万1,465・女2万7,724(桑名明細記/桑名市史)。「如法山覚書」によれば,延宝7年の町中家数は1,864(うち寺33・神社6)・人数1万2,520(男6,650・女5,257),家中家数754・同人数9,648,郷中家数1万5,038・人数5万7,195(男2万9,500・女2万695)。藩領は木曽・長良・揖斐3川の下流に位置するため再三洪水に襲われ,沿岸や沿海部の農村では共同作業による復旧作業や株地割による田畑の共有化も行われた。とくに慶安3年の大洪水では桑名城下町が浸水し,田畑は藩領の半分を超える6万4,000石余の被害を受けた。元禄14年2月桑名一色町からの出火で本丸・二の丸・三の丸などが残らず焼失し,侍屋敷70軒・町家1,456軒が焼失。ついで同年4月内堀より出火し,赤須賀・伊賀町に延焼して侍屋敷60軒と藩の武器・諸道具類すべてを焼失し,藩では幕府より1万両を借り入れて復興に数年を要した。城の再建や市街の復興事業に当たった手代野村増右衛門は,また河川工事や農地開発など種々の工事や藩財政の建直しに手腕を発揮し,ついに750石取の郡代に昇進した。しかし成上りの身のためか旧上層部にねらわれ,宝永7年2万両の調達のため上京中,公金盗用・窮民搾取の罪に問われて一族44人が死刑となり,関係者370人が罷免された。藩主定重も,この郡代野村事件による失政から同年越後国高田へ移封された。ついで宝永7年備後国福山から松平(奥平)忠雅が10万石で入封。藩主は忠雅(~延享3年)ののち,忠刻(~明和8年)・忠啓(~天明6年)・忠功(~寛政5年)・忠和(~享和2年)・忠翼(~文政4年)・忠堯と文政6年まで7代113年続くが,同年忠堯が武蔵国忍(おし)へ移封した。なお,忍移封後も三重郡生桑村など9か村5,705石余は廃藩時まで忍藩の飛地領として存続した。松平氏治下の当藩は,前代に引き続いて正徳3年をはじめ享保年間・元文年間・延享年間にも洪水に見舞われ,農民の窮乏と農民の階層分化が進行した。宝暦3年幕府は木曽三川の治水工事を薩摩藩に命じ,薩摩藩家老平田靱負が惣奉行となって1年有余を要して工事を完成させたが,40万両にも及ぶ多大の藩費と80数人の病死・自害の犠牲者を出した責任を負って,平田は工事検分後に自害した。宝暦治水工事により3川沿岸の水害は減少したが,それ以外の河川や沿海部の被害は減らなかった。天明2年6・7月にも洪水に見舞われ,被害農民は年貢減免を要求したが,拒否され,他方用金4,000両の取立ても厳しかったことから農民一揆を起こした。同年12月およそ400人の農民が員弁(いなべ)郡大泉長宮に屯集し,通行人の所持品や運送中の米麦を強奪し,その後2,000人が地方役人や山目付宅などを打ちこわし,さらに一揆勢は員弁郡一帯・朝明郡西部・桑名郡西部に拡大して総勢3万人余となった。この結果,要求は聞き届けられて山目付・郷目付・地方目付などの地方役人は罷免され,首謀者多数が入牢となった。また,文政6年忠堯の武蔵国忍への国替えに際し,農民は助成講金の返還を要求して却下されたことから一揆が発生。8月に員弁郡から始まり,その後桑名・朝明・三重郡に波及して全藩一揆に発展し,地方役人宅など200軒を打ちこわした。藩は津・亀山・菰野(こもの)・大垣・紀州の各藩と美濃笠松代官所の援軍を得て鎮圧したが,要求は入れざるを得なかった。首謀者石榑村文左衛門ら3人は打首となった。忠堯の移封後は,文政6年松平定信の子の松平(久松)越中守定永が陸奥国白河から11万石で入封したが,同家は先に宝永7年桑名から越後国高田へ転じた松平定重家と同じ家で,同家はさらに陸奥国白河へ移り,文政6年再び桑名へ戻ったものである。定永入府時の桑名藩領は以前と大きく変化し,文政7年の所領は桑名郡のうち62村2万9,867石余・員弁郡のうち79村3万1,385石余・朝明郡のうち30村1万3,692石余・三重郡のうち8村5,930石余の合計8万875石余,その他新田高2万78石余と越後国の魚沼郡20村・刈羽郡72村・三島郡29村・蒲原郡21村からなり,表高11万石に対し内高(実高)は14万2,000石余であった。文政11年の領内人数は5万6,792で,うち男2万8,791・女2万8,001(桑名市史)。越後の分領地の支配のため,柏崎に陣屋を設けた。藩主は,定永のあと定和(~天保12年)・定猷(~安政6年)と継ぎ,定猷に実子がなかったため美濃国高須藩主松平義建(尾張徳川家の分家)の七男定敬(~明治2年)が継いで,その子定教のとき廃藩となった。廃藩置県時の江戸城中の詰所は溜間。定敬は会津藩主松平容保の実弟でもあり,元治元年京都所司代となり,幕末時には会津藩とともに京都の警備に当たった。大政奉還により京都警備の任は解かれたが,鳥羽・伏見の戦では幕軍方の中枢となって出兵し,戊辰戦争でも東下して分領越後柏崎で挙兵した。さらに会津戦争にも加わろうとしたが,兄容保にいれられず転戦後箱館に入った。一方留守を守る桑名城では恭順派が主導権を握り,先代定猷の遺子万之助(のち定教)を擁して新政府軍に無血開城し,桑名藩は尾張藩の支配下に置かれた。定敬も家臣らに説得されて東京に戻り降服した。明治2年桑名藩は6万石で再興が許され,定敬が知藩事に任命された。桑名は揖斐川の河口に位置し,木曽・長良の2川を背後にもち,尾張名古屋に近い東海道交通の要衝であるため,幾度かの国替えはあっても,家門・譜代が封ぜられ,美濃国の年貢米や木材などは桑名を中継として江戸に送られた。問屋・伝馬会所・船会所が設けられ,天明4年吉津屋町に設けられた米会所は藩主の許可を得て延取引も行われた。桑名は油の製造も盛んであり,会所では油の取引も行われた。鋳物は本多忠勝が桑名入封後,鋳物師広瀬与左衛門を鍋屋町に住まわせて盛んとなり,松平定綱のとき辻内善右衛門も加わり近世末期には多くの使用人を抱えて工場制手工業に発展した。陶器は元文年間桑名の沼波弄山が朝明郡小向(おぶけ)で万古焼を創作,天保2年には桑名の森有節が小向で有節万古を創り,幕末には桑名万古の名が全国に知られた。桑名蛤も今一色を中心に産出され,焼蛤あるいは時雨蛤も東海道をゆく旅人に喜ばれた。藩学は松平忠和の寛政10年,昌平黌の学監平井澹所を招いて講書とし,子忠翼のとき文化10年藩校進修館を創建した。ついで松平(久松)定永は,入部後父定信が創設した藩校立教館を白河より移して文政6年藩校立教館を開校した。また,当藩では藩主の奨励により伝統的に和算の研究が盛んで,藩士松宮俊仍(観山)が長崎へ遊学して天文・算数・航海術を究め,藩主忠和も関流の和算を学んだ。またその信任を得た田川算翁も算数に秀いで,庚山政勝は「円理測量」を著わした。定信に仕えた不破直温(梅仙)は桑名に住んで「円理新法」を著わして全国に普及し,遠藤利貞も幕末から明治にかけて和算を大成した。明治4年の戸数1万2,740・人口5万5,647。同年廃藩となり,藩領は桑名県を経て安濃津(あのつ)県となり,同5年三重県に編入された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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