成願寺
【じょうがんじ】

一志(いちし)郡白山町上ノ村にある寺。天台真盛宗。山号は慧命山。本尊は阿弥陀如来。真盛上人(円戒国師)を開山とする。上人は当郡大仰(おおのき)出身で,近江国西教寺(大津市に所在)を中興,戦国期延徳2年から津の西来寺を拠点として伊勢国の教化に専念していた(真盛上人往生伝記)。明応2年,小倭(おやまと)の在地領主新長門守が上人の教化を受け出家。九真法師と号して,同年の北畠材親の伊勢神宮出兵で失った長男経成・次男経盛らの菩提を弔うため上人の許しを得て当寺を小倭城の近くに建立(真盛上人御奇特書/小倭成願寺文化誌)。同3年8月にほぼ完成(真盛上人往生伝記)。同月より四十八日夜の別時念仏が修され,念仏会が結願に近づいた9月15日に小倭百姓衆360人,9月21日に石見入道・尾張入道ほか44名が上人の教化にしたがい同信同行するという起請文を提出(小倭百姓衆起請文・古来檀中証文/小倭成願寺文化誌)。この2点の文書は小倭郷の中間的支配者層である地侍の一揆的な結合と,その下にある各村百姓衆単位の結合という在地構造を物語り,在地徳政など当時の社会情勢を知る上での好史料とされる。その後堂宇の修築がなされ,当寺所蔵の「資堂田記録」によれば,永正6年から天正10年の間に3町5反以上の寺領を有する寺院になった(同前)。しかし,天正12年の蒲生氏郷の小倭攻略の際に諸堂をことごとく焼失する。江戸期に入り,寛永16年頃12世住持の長寿が再興に着手し,17世旭運が伊勢・紀伊両国に勧進して再興を成し遂げた(成願寺由緒書/同前)。寛政11年には紀州藩の直接支配下に置かれることになる(直支配仰書/小倭成願寺文化誌)。当時蓮華寺・慈眼寺・正持寺など26か寺の末寺を擁していた(年中行事記・当山要用録/小倭成願寺文化誌)。その間寛文から貞享年間にかけての南出(みなみで)白山社(町内南出に所在)への復興協力で,白山社との関係が密接になり,15世慧空は貞享3年に「白山妙理大権現本記」を作成した。また16世見空が観音講を結成。その講中の人々によって十夜会(十日十夜の別時念仏)も始められ,これら行事は今日まで続いている(小倭成願寺文化誌)。寺宝として本尊の木造阿弥陀如来倚像・絹本著色仏涅槃図(以上,国重文),紙本墨書成願寺文書6点・布帛墨書真盛筆戸帳名号(以上,県文化財)などを所蔵。阿弥陀如来倚像は蓮華に腰をかけた珍しい仏像で腰掛けの阿弥陀如来といわれる。天台3代座主の円仁(慈覚大師)作と伝えられるが,鎌倉後期の作。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7127291 |





