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田中中世古町
【たなかなかせこまち】


旧国名:伊勢

(近世~近代)江戸期~明治40年の町名。江戸期は山田を冠称することもあり(天保郷帳),明治元年から同22年までは山田を冠称。江戸期は伊勢外宮の門前町である山田町の1町。宮川と勢田川に挾まれた高倉山東麓の沖積平地に位置する。「勢国見聞集」のように田中町と中世古町を分けて記載する文献もあるが,「天保郷帳」や「神都雑書」では田中中世古町と記し,通例山田十二郷二十組町という場合も当町を1町と数えて二分しない。町名の由来は,田中は田圃の中にできた町という意,中世古は中ノ道場と称する神光寺があり,その中ノ道場世古の略称という(藤園雑纂)。世古とは宇治山田に多い地名で,狭処(さこ)の意,あるいは南北に通る路地をさすが,この町は東西に通じており,山田では唯一の例外となっている。自治組織である山田三方会合に所属し,貫銭(つなぎせん)と呼ばれる税を49両上納した。寛永20年の戸数322・人数1,312(両宮宮下地図),嘉永3年の戸数138(藤本利治:門前町)。御師数は延宝元年17,天保7年23(同前)。参宮街道が通り,御師が軒を連ねる門前町として発展。とくに御師春木大夫は徳川将軍家の御祈祷師として名声が高く,330石を知行。このためか神宮式年遷宮の御木曳のうち御樋代木奉曳の特権が当町に与えられていた。寛延3年頃両替屋が1軒営業。御巫清直の家塾では,国書講義所と付属手習所を開設して教育にあたる。寛文10年と明和元年の大火で罹災し,宝永3年の火災では町域全戸が焼失する。神社は菅原社・稲荷社が鎮座。両社は明治41年須原大社へ合祀。寺院は寛文6年に7か寺あり(山田三方会合記録),このうち時宗神光寺は中ノ道場とも称したが,寛文の大火後他所へ移転し,その跡には町の会所が置かれた。他の寺も大火後は移転あるいは廃寺となった。明治5年の人口は430人となり,江戸期に比べて激減する。明治22年宇治山田町,同39年からは宇治山田市に所属。同40年本町と改称。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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