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津港
【つこう】


津市東部で伊勢湾に入る岩田川河口部と付近の沿岸海域を範囲とする港。岩田川河口とその付近を阿漕浦(あこぎうら)地区,その南の日本鋼管津製作所から雲出川古川河口付近にかけてを伊倉津(いぐらづ)地区と呼ぶ。泊地面積41万941m(^2),3,000t級船舶用1バースほか6バースの岸壁,8,900m(^2)の野積場のほか,阿漕浦地区には保管可能隻数457のマリーナがある。昭和46年3月に松阪港と合して津松阪港となり,同年4月重要港湾の指定を受けた。古くは安濃(あの)郡の港の意で安濃津(あののつ)と称され,転訛して洞津((どうしん)・(あなのつ))とも記された。明の茅元儀が著した「武備志日本考」には「国に三津あり皆商船の聚る所,通海の江也。薩州に坊津あり,筑前州には花旭塔津,伊勢州の洞津,三津惟坊津を総路と為し客船の往返必ず由る。……洞津は末の津たり,地方も亦遠し,山城と相近く,貨物或は備はり或は欠く」(津市史)とあるように,古代から中世にかけては日本の代表的な港として知られていた。「平家物語」にも「古へ清盛公,いまだ安芸守たりし時,伊勢国安濃津より,舟にて熊野へ参られけるに……」とあり,伊勢より出た平氏が当時この港を主要な根拠地にしていたことがうかがわれる。室町期には中勢から神宮に供米を積出す港として,また北勢方面からの物資輸送の船の寄港地として栄えた。康永元年にここを通った坂士仏は「参詣記」に「此津は江めくり浦遙にして行ききの舟人の月に漕く声旅泊の枕に聞えて……」と記している。この頃の港は今の岩田川河口より南の阿漕浦海岸付近と推定され,「夫木集」巻29松の部に「いせの海あのの松原まつとてもいひし日数になみは越つつ」(民部卿為家)とあるように,松原の続く砂州が沖に延びていた(津市史)。しかし明応7年8月25日(6月11日説は誤り)の大地震と津波のため港は壊滅し,松原も消え,急速に衰微した。約20年後の大永2年にこの地を通った連歌師宗長の手記には「此津十余年以来荒野となりて四,五千軒の家,堂塔跡のみ,浅茅蓬が杣,誠に雞犬はみえず,鳴鴉だに稀なり」とある。江戸期に入り,藤堂氏がここに入封して後,物資輸送の必要から岩田川河口の浚渫と築堤に着手。延宝年間以後しばしば改修が行われた。安政6年には藩の新造船を係船する場所の必要上,新堀が河口左岸側に開削され,現在の港の原型がほぼ完成した(同前)。港町贄崎(にえざき)の繁栄もこの頃以後である。河口の港であるため,土砂の堆積は著しく,明治期以後も再三浚渫が行われたが,大正8~14年の間に293mの北岸突堤工事を行ってようやく軽減することができた。明治初期頃には参宮客輸送の定期船が寄港したものの,鉄道の発達とともに廃止され,貨物運輸の定期船のみが第2次大戦頃まで残った。昭和期にも小規模な改修が繰り返され,昭和45年には伊倉津地区の公共港湾施設が完成したが,港勢に大きな変化は見られない。同55年度統計では入港船舶数1万7,621隻,総t数67万3,539tである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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