鉄砲町
【てっぽうまち】

(近代)明治初年~現在の町名。明治5~20年頃までは上野を冠称。江戸期は伊賀上野城下の武家屋敷地で,通称名として存在し,廃藩置県にともない町として起立した。城下町の南西部に位置し,西は万町,北は忍町,東は愛宕町に接する。地名の由来は,鉄砲衆の屋敷があったことにちなむという。「宗国史」によれば,東鉄砲町と西鉄砲町に分かれている。江戸初期には落合左近組・石田三郎左衛門組・須知孫左衛門組・小川五郎兵衛組・中小路助進組の預り鉄砲衆の屋敷があった。「永保記事略」によれば元禄12年に新道ができたとある。これは,当町は北からの道のみで,東日南(ひがしひなた)町・西日南町と同様に袋町であったが,愛宕町の下の名張街道から分かれて当町を抜けて万町に出る道,あるいは当町を横断して万町に出る道ができたことを意味するのであろう。明治5年の戸数25・人口123(うち男66・女57)。同22年上野町,昭和16年からは上野市に所属。明治22年~昭和25年までは大字上野のうち。大正10年清水玄俊により,私立成蹊学院が男子中学校として創立,同14年私立中学校の認可を受け,昭和5年頃の生徒数約100名に及んだが,同10年頃廃校。同23年市営住宅10戸が建設された。同26年の世帯数162・人口660。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7127944 |





