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東海道
【とうかいどう】


律令制度における国郡制上の行政区画である国の集合体である五畿七道の1つであり,また街道名でもある。行政区画として古代日本は60余州を大区分して五畿七道六十余州とした(扶桑略記応徳3年条)。五畿は大化改新の詔による畿内(日本書紀)で,当初4か国であったが(日本書紀持統天皇6年条 除四畿内)のち5か国となった(続日本紀,養老5年条 畿内五国)。七道は畿内を中央に四方に東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海と九州の西海道であった。大宝令によると東海道は次の15か国である。すなわち伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・上総・下総・常陸の13か国と上総から分置された安房と東山道から編入された武蔵とである。伊賀も大化の際には伊勢の一部であったが,天武天皇9年伊勢から4郡をさいて伊賀を置いた(扶桑略記)。東海または東海道の名は「日本書紀」崇神紀に「武渟川別遣東海」とあるのが初見で,同じく天武天皇14年紀に「東海道伊勢以東諸国」,「続日本紀」大宝3年条に東海道・東山道・南海道の名が見え,「令集解〈公式〉」に「凡朝集使東海道坂東」等をあげることができる。「延喜式」によると国には大・上・中・下の段階があり,東海道の諸国は,伊賀(下)・伊勢(大)・志摩(下)・尾張(上)・三河(上)・遠江(上)・駿河(上)・伊豆(下)・甲斐(上)・相模(大)・安房(中)・上総(大)・常陸(大)と規定されていた。「職員令」によると大国は守・介・大掾・少掾・大目・少目を各1人と史生3人を置き,上国には守・介・掾・目を各1人と史生3人を,中国には守・掾・目各1人と史生3人を,下国には守・目を各1人と史生3人を置いた。また大国の守は従五位上,上国の守は従五位下,中国は正六位下,下国は従六位下という格差があった。また畿内との遠近により東海道15国のうち,伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河は近国,遠江・駿河・伊豆・甲斐を中国,相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸が遠国とされた(延喜式)。令制によると東海道は都から常陸国府に至る幹線道路のことで,都が奈良盆地にあるときは伊賀を通って伊勢に出たが,都が平安京になると近江を通って伊勢に出た。往昔大和から東方に発進する道路は伊勢参宮道路の性質を兼ねているものが多い。壬申の乱に際して大海人皇子は大和から伊賀に入って隠(なばり)に着き,盆地を斜行して積殖(つむえ)山口を経て加太(かぶと)を越えて伊勢に入り,朝明郡迹太(とお)川の辺で大神を遙拝し桑名郡家に向かった(日本書紀)。奈良遷都後,霊亀元年大和国都祁(つげ)山の道を開いて南伊賀に入る新道をつくった(続日本紀)。聖武天皇は藤原広嗣の乱に際して平城京を発して伊賀に入り青山峠を越えて壱志郡川口頓宮に駐留して神宮に奉幣している(続日本紀)。これらに対して「続日本紀」和銅4年条に阿閇(あへ)郡新家駅家を置くとある。これらの中で東海道の性質をもつものは大海人皇子の通路が古く,平城遷都後は木津川の線に沿った新家駅を通るものであったろう。しかし平安遷都後,仁和2年6月に伊勢斎内親王が近江国の新道を通って大神宮に向かい,「停伊賀国旧路頓宮下伊賀国」(三代実録)とあって,遷都により伊賀国通過の東海道は幹線道路としての地位を失って駅家も廃されたのである。爾来近江経由の新道が東海道となった。伊勢国に入って東海道は鈴鹿駅から伊勢国府(鈴鹿市)を経て河曲・朝明・榎撫(えなつ)の各駅を通過した。この駅については大化2年詔に駅馬・伝馬を置くことが定められており(日本書紀),官使の用に供した。駅間隔は30里(今の約16km)とされたが自然条件によって変動があった。事急なるときは駅馬を,緩なるときは伝馬を用いた。「厩牧令」によると駅馬は大路は20匹,中路は10匹,小路は5匹とされ,伝馬は各郡ごとに5匹を置いた。東海道は中路であったから駅馬10匹を原則とするが,駅の繁忙により駅馬・伝馬の数は必ずしも一定しなかった。伊勢国関係の駅馬・伝馬をみると,鈴鹿駅家は駅馬20匹・伝馬5匹,河曲駅家は駅馬10匹・伝馬5匹,朝明駅家は駅馬10匹・伝馬5匹,榎撫駅家は駅馬10匹・伝馬なしであった。榎撫駅家については「日本後紀」弘仁3年条に伊勢~尾張間は渡河したので伝馬をやめたとある。尾張以東の駅名と駅馬数をあげると,尾張(馬津・新溝・両村の3駅で駅馬各10匹),三河(鳥捕・山網・渡津の3駅で駅馬各10匹),遠江(猪鼻・栗原・引摩・横尾・初倉の5駅で駅馬各10匹),駿河(小川・横田・息津・蒲原・柏原・永倉の6駅は駅馬各10匹,横走駅は駅馬20匹),甲斐(水布・河口・加吉の3駅で駅馬各5匹),相模(坂本駅22匹,小総・箕輪・浜田の3駅は駅馬各12匹),武蔵(店屋・小高・大井・豊島の4駅で駅馬各10匹),下総(井上(いかみ)駅10匹,浮島・河曲の2駅は各5匹,苗津・於賦の2駅は各10匹),上総(大前・藤瀦(ふじぬま)・島穴(しまな)・天羽(あまは)の4駅で駅馬各5匹),安房(白浜・川上の2駅で駅馬各5匹),常陸(榛谷駅5匹,安侯(あご)駅2匹,曽禰駅5匹,河内・田後・山田・雄薩の4駅は駅馬各2匹)であった。このころ甲斐国と安房国の駅は国府への通路に置かれたものである。「大化2年詔」によると関塞(せきそこ)が置かれたとある。「軍防令」によると「凡置関応守国,並置配兵士,分番上下,其三関設鼓吹軍器,国司分当守固」とある。この三関は伊勢鈴鹿・美濃不破・越前愛発(あらち)のことで,和銅2年藤原房前が東海・東山2道に遣わして関を検察せしめた(続日本紀)。養老5年元正天皇の死に際して三関を固守せしめた(続日本紀)。天平神護元年10月天下動揺の気配を察して三関を固めさせた(続日本紀)。しかし延暦8年7月14日,伊勢・美濃・越前等の国に勅して関を置くのは中外を隔絶させるのでこれを停廃している(続日本紀)。元来三関の設置は蝦夷に対するためであったのが,その意義が薄れてきたので停廃されたのであるが,重大事に三関を固めることは形式的にも暫く続いた。すなわち大同元年桓武天皇の死により3国の故関を固めたとあり(日本後紀),天安2年文徳天皇の崩じるや,伊勢・近江・美濃国に使を遣わして警固させている(文徳実録)。鈴鹿関については明らかでない。鎌倉期になると,鎌倉幕府と京都との往来がしげくなり国内随一の幹線道路となった。徳川家康が天下を掌握するや五街道の制を定め,東海道は最も重要な道路となった。すなわち慶長年間東海・東山・北陸などの諸街道を修理して,はじめて一里塚を築き(当代記),また宿場を定めて伝馬の制度を整備させた。すなわち各宿場に問屋を置き,人馬を常備する義務を負わせた。その数もはじめ人馬ともに36であったが,寛永頃には100人・100匹となり,不足するときは助郷によった。宿場は江戸日本橋を起点とし京都三条大橋を終点として次の53次であった。品川・川崎・神奈川・保土ケ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根・三島・沼津・原・吉原・蒲原・由比・興津・江尻・府中・鞠子・岡部・藤枝・島田・金谷・日坂・掛川・袋井・見付・浜松・舞坂・新居・白須賀・二川・吉田・御油・赤坂・藤川・岡崎・池鯉鮒(ちりふ)・鳴海・宮・桑名・四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下・土山・水口・石部・草津・大津で,このうち,宮~桑名間は海路をとった。県内では桑名から坂下までであった。県内においても当初の東海道は鈴鹿川右岸を通って国府を経由したが,のち左岸を通るようになった。「勢陽雑記」によると明暦年間頃の各宿場町の様子がうかがえる。「桑名 人家一千軒余,牛馬の市あり,土地,名物 牡蠣,蛤蜊(はまぐり),真珠,木地の挽物,時の城主松平摂津守 高拾壱万三千石,四日市 市月毎月六斎なり……東海道の往還也,駅次舎人家五百軒余,石薬師 市中七町 人家二百軒余,町の端に薬師石像あり(中略)庄野 人家四百軒余,東海道往還の駅所なり。亀山 時の城主石川宗十郎 高五万石 市中十七町 人家七百余軒,東海道の駅路也,関地蔵 市中十五町 人家五百軒余,南側半に地蔵堂有り,東海道の駅路也」とあり,明暦年間頃の各宿場の様子がうかがえる。このほか江戸期の東海道沿線の風景人情を示すものに十返舎一九の「東海道中膝栗毛」,安藤広重の「東海道五十三次」や「東海道名所図会」などがある。国道1号の整備開通や東名・名神高速道路の開通により,かつての東海道はその利用価値がうすれている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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