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鳥羽藩
【とばはん】


旧国名:志摩

(近世)江戸期の藩名。志摩国鳥羽(鳥羽市)周辺を領有した中小藩。はじめは外様,のち譜代。居城は鳥羽城。慶長5年九鬼守隆が5万5,000石を領有して立藩。守隆の父嘉隆は,志摩国波切城九鬼定隆の次子で,伊勢国司北畠家に属したが,志摩国を手中に収めんと北畠傘下を離れて織田信長によしみを通じ,永禄12年信長の伊勢大河内城攻略の際,船手の大将として志摩磯部7郷・賀茂5郷を奪い,伊勢湾口を扼する鳥羽に海に面して築城した。鳥羽の橘宗忠の妹婿となり,宗忠に嗣子がなかったためその所領をついで志摩一円を収めた。嘉隆は信長の長島一向一揆にも水軍で参戦,天正6年大坂本願寺攻めに大船を大坂河口に回航し,その功により志摩7島,摂津野田,福島の地を与えられ3万5,000石に封ぜられた。信長の没後は豊臣秀吉に従い志摩国および伊勢国二見郷を与えられ,小田原・四国・九州攻めに加わり,文禄の役には秀吉に名付けられた巨船日本丸に乗り水軍の将として出動したが,水軍の将として責任をとらされ,慶長2年秀吉の命により嫡子守隆に3万石を譲り,自らは5,000石を領して隠居した(寛永系図伝)。慶長5年守隆は家康に従って会津上杉攻めの途中,石田三成挙兵の報に西上することになり,兄成隆を人質に渡して家康に従った。父嘉隆は三成の再三の勧めで西軍に属し,父子敵味方に分かれた。嘉隆は紀伊新宮城主堀内氏善とともに守隆の鳥羽城を攻めてこれを奪ったが,関ケ原での三成の敗死後,鳥羽城を捨てて答志和具に隠れた。守隆は福島正則を通じて父の助命を願い出て死罪が許されたが,これに先立ち嘉隆は家臣豊田五郎右衛門に勧められ自殺した。守隆は会津攻めの従軍や桑名城攻略などの功により家康から旧領を安堵されるとともに伊勢国2万石加増され,嘉隆の隠居料5,000石も合わせて5万5,000石を領有した。これが江戸期の鳥羽藩の立藩である。九鬼氏は外様。守隆は幕命により慶長14年西国諸大名の500石以上の武者船調査を命じられ,淡路で大船を改めて駿府と江戸に報告した。大坂冬の陣には三国丸という大船をはじめ50艘を率いて大坂湾口の警備・攻撃に功をあげ,夏の陣にも堺で大野道犬を破り,尼ケ崎に陣して警備に当たるなどの功を認められ,伊勢国で1,000石の加増を受け,江戸城工事の際も造営用資材を船で運び幕府に尽くした。寛永9年守隆は没し,長子良隆が跡を継いだが,病弱のため翌10年守隆の5子久隆を養子にして継領した。しかし,守隆の3子で伊勢朝熊金剛証寺の僧となっていた隆季が還俗して久隆と嫡庶を争い,家臣も両方に分かれる跡目争論となり,幕府に訴えたため幕府の裁決により,同10年久隆は摂津国三田3万6,000石へ,隆季は丹波国綾部2万石にそれぞれ海のない国へ転封された。九鬼氏は守隆の功により家督取潰しは免れたが,安定時代に入り九鬼水軍の必要も薄れ,むしろ水軍力を警戒され,御家騒動を機に山国へ転封となったといえよう。九鬼氏のあと寛永10年譜代で常陸国真壁2万石の内藤忠重が3万5,000石で入部した。忠重は,三河国伊良湖が志摩国神島に接して海陸漕運の利があるため,幕府に訴えて鳥羽領とした。藩領は,寛文4年には志摩国答志郡36村1万1,842石余,英虞(あご)郡20村7,882石余,伊勢国度会(わたらい)郡のうち5村4,008石余,多気郡のうち7村3,235石余,飯野郡のうち6村3,030石余,常陸国信太(しだ)郡のうち15村5,000石,三河国渥美郡伊良子村230石余で,合計3万5,230石余(寛文朱印留)。延宝元年忠勝の時に弟忠知に2,000石を分知し,3万3,000石となる。忠重は二の丸,三の丸を増築して鳥羽城を近代城郭に整備したが,多額の出費を要したため年貢は8公2民の高率となり,夫米・水主米などの付加米を入れると鳥羽藩政の中でも極めて厳しい収奪であった。内藤氏の治世の間,伊勢神宮の別宮伊雑宮と藩主・伊勢神宮との間に伊雑宮の神領・神格をめぐって内外両宮を伊雑宮の分家と主張する謀計事件が起こった。延宝8年忠勝は芝増上寺における4代将軍家綱法会の席上,私憤から丹後国宮津城主永井尚長を殺害したため切腹を命じられ,内藤家は断絶。鳥羽城は幕府直轄地となり,伊勢菰野(こもの)の土方雄豊,美濃国苗木の遠山友春が7か月間預ったが,天和元年下総国古河(こが)城主土井利益が7万石で入封。藩領は志摩国2郡で2万石,伊勢国度会(わたらい)・多気・飯野郡,近江国蒲生郡,三河国宝飯(ほい)・額田・設楽(しだら)郡で5万石。土井氏の時は新田開発も奨励され,鳥羽藩の領主中最も課税が低かったが,11年後の元禄4年肥前唐津城主松平乗邑と封を交代した。松平氏の封地は6万石で,志摩国のほかに伊勢・三河・近江3国のうちを飛地とした。乗邑も宝永7年在城19年間で伊勢亀山城主板倉重治と入替えとなった。板倉氏の封地は5万石で,志摩国のほか伊勢国度会・多気・飯野郡,三河国渥美・宝飯・設楽・額田郡に散在した。重治も正徳5年内宮宇治橋の架替えの造営奉行を勤めた程度で8年後の享保2年再び亀山城に戻り,代わって山城国淀から松平(戸田)光慈が7万石で入封し,9か年在封したが,享保10年信濃国松本へ移封し,下野国烏山城主稲垣昭賢が入部し,以後は譜代間で頻繁に領主交替した当藩も領主が固定して廃藩時まで8代147年間続いた譜代。藩領は志摩国答志郡37村1万2,130石,英虞郡内19村7,931石,伊勢国度会郡内5村3,336石,飯野郡内8村4,351石,多気郡内4村2,249石の計73村3万石で,ほかに新田高が志摩国に1,361石,伊勢国に294石(安政4年志州鳥羽藩禄高控/志摩国郷土史)。なお,稲垣氏入部のとき度会郡の一部は幕府領となり,近江信楽代官多羅尾氏の所管に編入され,多気郡の一部は上総国一宮藩(八田藩)加納久通の飛地,一部は上総国五井藩(西条藩)有馬氏保の飛地となり,鳥羽藩の伊勢国の所領は複雑な入り組み地となった。昭賢は入部後,領内の実情把握のため各村に指出帳を提出させている。昭賢(~宝暦2年)ののち昭央(~安永2年)・長以(~文政2年)・長剛(~天保13年)・長明(~慶応2年)・長行(~明治元年)・長敬と続く。稲垣氏の郷方支配は,郡奉行の下に各組に大庄屋があって各村を統轄し,庄屋は村民の投票で選ばれた。大庄屋組は,弘化4年の禄高表によれば,志摩国では小浜組15か村4,085石余,磯部組13か村5,233石余,鵜方組13か村5,209石余,国府組14か村5,142石余に分かれていた。志摩の海辺では難破船が多く,天保元年には波切の漁民が大王沖で遭難した幕府の城米船積込みの貢租米を抜荷し,取調べにきた信楽代官所役人を暴行殺害した波切騒動が起こり,庄屋以下多数の漁民が死罪獄門に処された。稲垣氏の入国後,享保13年の凶作,同17年の蝗虫による大凶作などの被害を受けたこともあって藩財政は窮乏化し,さらに天明2・6年,寛政3・4・7・10・11年の連年の凶作により藩債は1年の収納の10倍に当たる10余万両に達し,天保7~9年の大飢饉で窮乏は極に達した。このため当藩領飯野郡射和(いざわ)村竹川竹斎の求めに応じて佐藤信淵は「鳥羽領経緯記」を著わし,藩財政の計画性,役人の綱紀肅正,甘蔗・木綿の栽培,真珠採取・鰹節製造等の商品経済導入による利殖など財政建直し策を建言した。藩は信淵の建策をいれて天保11年以降5年間の日課銭の法を採用して15~60歳の男女1日1文の日掛講を命じたので領民には大きな負担となったものの成果はあがらなかった。志摩は漁業が盛んであり,捕鯨業も早くから行われ,慶安2年利益分配の紛争防止のため志摩21か村の「鯨船もやひ申定事」(石鏡村文書)という協定も結ばれたほどであったが,中期以降捕鯨は廃れた。志摩の鰡は名吉とよばれ,泥味がなく美味とされたため建切網による鰡漁が盛んで,藩財政建直しのうえからも保護奨励された。海女による貝類や海草類の採取も盛んで,とくに国崎(くざき)の熨斗鮑(のしあわび)が有名。藩は重要な財源であるため保護を与え,水主米・浦役を課した。藩は魚獲物の買上げや特権商人に取り扱わせて上納金をとり,また慶応3年に紀州藩と,明治元年土佐藩と提携して寒天の専売も行った。戸口は,正徳3年(板倉重治時代)の志摩国の戸数6,200・人数3万2,000(志陽略志)。安政4年(稲垣長明時代)の志摩国戸数7,088・人数3万4,099,度会郡5か村戸数926・人数4,083,多気郡4か村戸数324・人数2,888,飯野郡8か村戸数1,063・人数4,557で,合計戸数9,401・人数4万5,627(志州鳥羽藩禄高控)。明治9年の志摩国の戸数9,688・人口4万9,654(県史稿)。文政7年城内に藩校尚志館を建て,子弟の教育にあたった。譜代の鳥羽藩は慶応2年鳥羽・伏見の戦いでは幕軍方について参戦したが恭順し,亀山藩のとりなしもあって本領を安堵され,他藩に先がけて明治2年城を破却し,同年6月版籍を奉還。同4年鳥羽県を経て度会県となり,明治9年三重県となる。明治2年版籍奉還時の江戸城中の詰所は帝鑑間。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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