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農人町
【のうにんまち】


(近代)明治8年~現在の町名。明治20年頃までは上野を冠称。農人街とも書いた(宗国史)。江戸期は上野村の一部であったが,城下町の発展に伴い市街化されて通称町名として存在し,明治8年分離。伊賀上野城の東,城下町の東北部に接し,西隣は赤坂町,東隣は車坂町。上野村は北谷・東出・愛染院町・妙華寺町からなり,このうち北谷を除いた地域が総称して農人町と呼ばれ,上野台地上に形成された。天和年間頃の家数95,うち役家47,隠居45(統集懐録)。「三国地誌」によれば,当町には古代の駅があり,「或今古の駅路は愛染院町より玄蕃町及び槨内を経て西の丸に通ずと云」とあり,古く東西の交通路は車坂を上り,東出・赤坂町・玄蕃町・西ノ丸を経て塔世坂に出たものと考えられる。のちには城下町造営により古道が中断され,伊賀越道が車坂から本町通りを通るようになり,この道は当町の南部を通った。また,古くは加太越奈良道は妙華寺町を通り赤坂を下って佐那具へ出たが,江戸中期以後は赤坂町を通る道が本道となる。津藩は宿場町やそれに準ずる町には修理米を給付しており,当町は間口1間あたり2升の割で756間分,米15石余が下賜された(統集懐録)。妙華寺町は妙見町とも呼ばれ,同町と東出には武家の下屋敷があり,赤坂町の下屋敷に連なる。妙華寺町は,臨済宗大徳寺派妙華寺に由来する町名で,同寺の南隣には上行寺下屋敷,その西南には妙華寺隠居所があった。同寺の開基は津藩の重臣桑名弥次兵衛一孝とされ,寺号はその先祖一政が土佐で死に法名を妙華院殿と称したことにちなむという(伊水温故)。妙華寺町の東側が愛染院町であり,愛染院にちなんだ地名という。同寺は,松尾芭蕉の生家の菩提寺。芭蕉が元禄7年に死んだ後,その遺髪を同寺に納め,石碑をたて故郷塚と称した。愛染院には,もと遍光山願成寺といい,上野村の東にあったことから東之坊とも呼ばれ,のち大徳寺と改称した(伊水温故)。同寺は,上野山平楽寺の東之坊とも考えられる。また,愛染院町の南には安楽院があり,その周辺を安楽院町ともいった。「伊水温故」によれば,法爾山戒光寺があり,京都仁和寺の末で,のち真言宗智山派総本山智積院の末となったという。現在は,同宗豊山派。愛染院町と安楽院町との間の伊勢道に沿って商家が集まった。享保5年の出火では27軒が類焼し,宝暦13年の火事では安楽院町と車坂町とあわせて竈数110軒を焼き,藩は米72俵2斗を給付した(上野町旧記目録)。文政5年島ケ原村の観菩提寺へ青銅製の大香炉が寄進された際の施主に当町の商人10人の名がある。このうち,佐那具屋又五郎や富田屋利助は有名で,「奉公するなら農人町筋の角(かど)富田屋か佐那具屋か」と俚謡にうたわれた。文政7年,上野天神内にある天満宮と九社明神にそれぞれ常夜灯炉が寄進されたが,天満宮のほうには富田屋理助ほか40人,九社明神のほうは理助1人で寄進されている。当町の神社には,ほかに津島神社・若宮八幡宮・山の神などがあったが,これらは明治41年に菅原神社内の美加多神社に合祀された。明治5年の戸数245・人口1,039(うち男497・女542)。同22年上野町,昭和16年からは上野市に所属。明治22年~昭和25年までは大字上野のうち。明治30年前後の上野町の商業税の賦課では,1~20等級まで大・中商店は当町が最も多い。同32年上野実業銀行が創立,同40年伊賀上野銀行に合併。同45年頃には東華銀行上野支店があった。大正4年頃勧業銀行上野支店が進出。大正11年伊賀鉄道が西部を通り,広小路駅停車場が設置された。昭和5年伊賀製氷冷蔵株式会社が創立され,同55年まで存続。昭和10年農人町郵便局が開局。同34年赤坂町から地内東出に突き抜ける道が拡幅され,交通量が増した。同37年平野竹ノ本の一部を編入。昭和26年の世帯数317・人口1,384。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7128565