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丸之内①
【まるのうち】


(近代)明治初年~現在の町名。丸ノ内とも書く。明治5~20年頃までは上野を冠称。江戸期は伊賀上野城の郭内で,廃藩置県にともない町として起立した。本丸の南を東西に通る大名小路と,南外堀に沿う堀沿い路との間の地域で,藩の重臣の役宅・居宅が並んでいた。江戸初期には外堀は二之丸堀と呼ばれた(統集懐録)。中期以後本丸に連なる東の郭を二の丸と呼ぶようになり,旧二之丸は惣郭とも呼ばれた(宗国史)。宝永5年西外堀に京口橋が架けられ,これにより西之丸の武家屋敷地と結ばれていた。外堀には東大手門,西大手門が設けられ,いずれも桝型基台をもつ門櫓があり,この門によって城下町に通じていた。東大手門は凶事門または不浄門,西大手門は慶事門と呼ばれるように,行事の際の通路が区別されていた。外堀沿いに時刻を報じる太鼓櫓,宗旨帳を収蔵する宗旨櫓など10棟の櫓があった。城の西南に文政4年藩校の崇広堂が建てられた(庁事類編)。崇広堂北側の台地には永倉(長倉)と呼ばれる米蔵があり,2,000俵の米と3万俵の塩が常備されていたという。この北には藩主の御殿が,東には武具蔵が建てられていた。これらの建物は明治維新後も残り利用され,崇広堂は明治5年私立上野義学校,永倉は明治23年公立白鳳高等小学校,武具蔵は同32年県立第三尋常中学校となる。明治3年東大手門に第三警備駐屯所を開設,同12年上野警察署と改称され,昭和11年忍町に移転した。明治6~10年西外堀が埋められ,西方低地にあった馬苦労町,幸坂町などが移転,この地域は当町の地籍から除外された。同7年上野町有志により伊賀上野博覧会が旧御殿舎で開催。同5年の戸数49・人口246(うち男108・女138)。同22年から上野町,昭和16年から上野市に所属。明治22年~昭和25年までは大字上野のうち。明治19年本丸の地域は上野公園としての存置を認可され,同24年藤堂伯爵家より譲渡を受けた。当時公園内には白亜の小林区署の建物があるのみであったが,これも同40年頃忍町に移転,田中善助等が本格的造園に着手した。同44年頃本丸下の広大な「扇の芝」に尋常高等小学校が開校,上野町の公立学校は大名小路の北側に集中し,伊賀における学府の町としての姿を整えた。同41年当町内の蛇谷に切通しが開削され,関西線伊賀上野駅とを結ぶ新道が竣工,当町が交通の要点となる基礎ができあがり,大正3年には伊賀軌道株式会社が設立され,同5年には丸ノ内と伊賀上野駅を結ぶ鉄道が開通,当町のうえのちょう駅は上野町の玄関口となった。明治44年西町にあった上野税務署が当町に,大正12年上野区地方裁判所が蛇谷切通し道と大名小路の交差する十字路の北側東角に,同15年上野郵便局が東町裏の外堀埋立地に移転,当町は学校官衙の町として様相を整えはじめた。昭和13年上野保健所が置かれ,俳聖殿同17年旧郡役所に置かれた伊賀地方事務所は同39年東小学校の跡地に移転。上野市役所も同年県庁舎の南に移転して地方政治の中心地となった。同23年桃青中学校,崇広中学校が当町の東,西に開校,国民学校も西・東の小学校に分離した。同26年の戸数568・人口2,325(うち男1,056・女1,269)。同33年上野産業会館,バスセンターが完成し交通の中心となり,同35年新総合市民病院が建置されるなど,官庁・公共施設が集中した。しかし近年総合市民病院・上野税務署・上野警察署・上野東小学校が緑ケ丘町南部に移転するなど,分散の傾向が始まりつつある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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