野洲川
【やすがわ】

淀(よど)川水系1級河川。古くは安河とも書いた。守山市・野洲郡を流れる。三重県境の御在所山(1,209m)に源を発し,鈴鹿(すずか)山脈南部の南西斜面の水を集めて流下し,上中流部の甲賀郡に山間谷地を開き,下流部の守山市・野洲郡で広大な沖積平野を形成して琵琶(びわ)湖に流入する県下最大河川。主流延長61km・流域面積387km(^2)で,1市9町の人口約20万人,淀川水系琵琶湖流域面積の約10%の地域の飲料・農工業用水を潤す重要河川。上流は松尾川といい,甲賀郡土山町南土山で支流田村川(18km)を合わせて,国道1号沿いに河岸段丘を形成,土山町・水口(みなくち)町酒人(さかうど)まで流れ,鈴鹿山脈南端の油日(あぶらひ)岳(694m)・那須ケ原岳(800m)を水源とし甲賀郡甲賀町・甲南町を流れてくる野洲川最大支流の杣川(そまがわ)(24km)と合流する。ここから,やや幅の広い山間平野を形成する中流域(別称横田川)となって甲西町・石部町を下り,石部町地先で平地に出る。ここから,約100km(^2)の広大な氾濫原をもつ扇状地性の沖積平野である野洲平野(守山市・野洲郡野洲町・中主(ちゆうず)町)を形成し,野洲川大橋から約3km下流の野洲町竹生(たけじよう)および守山市川田町の境界地先から,湖岸まで約5kmは北流(本流)と南流に分流し,その間に約9km(^2)の三角洲(守山市中洲学区と中主町吉川)を形成。南流末端部の河口は,堆積土砂の突出によって対岸の大津市堅田(かたた)に720mとせまり,琵琶湖最狭隘部をなし,琵琶湖を北湖(太湖)と南湖に分ける。野洲川の川幅は,平均450m,最大は甲西町の中流域で800mに達し,下流の南北流域では,急減して両川とも80m前後となる。勾配は,甲西町付近で170分の1,守山市内で500分の1~1,000分の1.7。川の名称は,安国造(やすのくにのみやつこ)の支配した土地を流れることによる。「万葉集」に「吾妹子にまたもあふみの野洲の川安眠(やすい)も寝ずに恋ひわたるかも」と見える。また,三条天皇の即位の時近江国が悠紀の斎国に卜定されるが,長和元年11月の大嘗会にあたって,悠紀方大中臣輔親は「すべらぎの御代をまちでて水澄める野洲の川波のどけかるらし」と詠んでいる(栄花物語)。中世野洲川は三上社家の支配に属し,応永5年閏4月には公用3貫文と贄を納める約束で河田前春梁を請けた者があり,寛正4年7月には三宅前の春梁1か所を300文で請けた者がいる(守山市史下)。野洲川からは「江鮭魚(あめのいお)」などがとれたらしい(本福寺跡書)。なお,野洲河原一帯は,天武元年7月壬申の乱において,近江朝方と大海人軍との戦闘が行われたことをはじめとして(日本書紀),中世はしばしば合戦場となっている。また,田村川は坂上田村麻呂の伝説にちなむ地方名,杣川は奥深い木こりの里の意である。野洲川は,室町期以降,河道固定化の土木工事などによって河床が急速に高まり,その後のたび重なる氾濫と構築堤のくりかえしによって天井川となり,国道8号付近から下流にかけての両岸堤は,比高7~9mの堤防が長蛇のように発達。天正8年以来記録された大洪水は9.3年に1回という荒川で,近江太郎の名が流域住民によって与えられている。昭和26年治水・農業用水として上流の土山町に野洲川ダムや水口頭首上の完成をみたが,流域市町の旱水害は消滅せず,同46年にも大水害をもたらした。同40年に建設省の直轄河川となったのを機に,下流の南北流を1本化し,天井川を廃して,その中間に人工的な平地河川をつくる事業が計画され,同46年に着工された。湖岸より石部町までの13.8kmを改修延長とし,そのうちの南北流を1本化する新川(守山市川田・服部・幸津川(さづかわ)各町を直線で通過)は,長さ4.4km・川幅360m・堤防幅30mの国営工事で,同54年開通予定。福岡県の筑後川,岡山県の旭川と並ぶわが国三大河川改修工事の1つ。南北流の廃河川敷は,立ち退き住民(栗東(りつとう)町川辺(かわずら))や関係者への代替地や公園を含む公共施設への利用が計画されている。また,新川掘削中,弥生~平安期の大集落遺跡が,服部町地先で発見されている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7135659 |





