大宮
【おおみや】

旧国名:山城
(近世~近代)江戸期~現在の町名。大宮通沿いの町で丹波口より南へ1~3丁目がある。天正19年西本願寺が現在地に移転後,その寺内町として開発された町。1丁目は寛永14年洛中絵図に「藪門前丁」,「京雀」および承応2年新改洛陽並洛外之図ほかの版行絵図では西本願寺境内の北の起点にあたることから「寺内一町目」と記す。また「宝暦町鑑」では「大宮一町目」と記し上半町・下半町の2町に分かれていた。「府地誌」では明治2年両町を合併。2丁目は寛永14年洛中絵図には「大宮一丁目」,「京雀」および承応2年新改洛陽並洛外之図ほかの版行絵図には「寺内二町目」と記す。「宝暦町鑑」および天明6年洛中洛外大図では当町北側を「橋詰町」,南側を「二町目」,明治元年の府令書は「橋詰町」「大宮二丁目」と記す。「府地誌」によると明治5年橋詰町を大宮2丁目に合併。3丁目については寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図は「大宮二丁目」,承応2年新改洛陽並洛外之図をはじめとする版行絵図では「寺内三丁め」,西本願寺境内町並図・天明6年洛中洛外大図・天保2年京町絵図細見大成は「橋詰町三町目」とあり,府令書に「大宮三丁目」と記す。「表処置録」によると米屋仲ケ間として1丁目に玉屋利右衛門,3丁目に玉屋徳兵衛,請酒屋仲ケ間として2丁目に美濃屋市兵衛が居住していた。また浄土宗に属する家持として2丁目には柏屋金七・近江屋しま,3丁目には播磨屋仁兵衛ほか6名を記す。また1丁目には釣針司丹波屋吉蔵が居住。江戸期西本願寺に対し御挑燈料志として,1~2丁目で1年2張分1,100文を納め,3丁目は1張分550文を納めていた(寺内歳時記)。また大宮上半町は暑中見舞として砂糖を献上している(表処置録)。宝永7年6月,西寺内一町目上半町(現在の1丁目)の炭屋市郎兵衛借や紺屋次兵衛ら3人が牢屋敷外番を勤める青屋役を拒否したことから争論が起きたが,結局,紺屋であっても藍染商売をする上は青屋役を勤めるようにとの裁断が下され,以後同様の事件が生じた際の先例となった(諸式留帳)。宝暦12年2月,1丁目の道筋が損傷し,往来が困難となったため,道路の改修を行うこととなった。その際向かい側の堀之上町の住民に協力を求めたが,当町が西本願寺に属するのに対し堀之上町が本圀寺に属していること,さらに西本願寺の許可を得ていなかったために,両町が協力して道路改修を行うことが従来からの慣習であったにもかかわらず,西本願寺から注意をうけ,上半町・下半町の年寄・五人組が連名で詫状を提出し,以後許可なく行わない旨を誓約している。上半町には本圀寺との境を明示する高札が建てられていた(村上文治家文書)。延享元年10月26日,2丁目の百姓市右衛門宅の屋根から出火,早速消しとめ御役所に報告している(同前)。3丁目の浄土真宗本願寺派善性寺(明治30年宮崎県高島村に移転)は宝永4年僧養雪の開基。江戸期,当町は西本願寺寺内町大宮組,1~2丁目は明治2年の町組改正より下京(しもぎよう)22番組,同5年第16区と改称,同25年第16学区に編成。3丁目は明治2年の町組改正より下京21番組,同5年第29区と改称,同25年第29学区に編成。明治12年下京区大宮1~3丁目,同22年京都市下京区大宮1~3丁目となり現在に至る。この間明治6年町内の西本願寺所有地内に中堂寺前町から人民共立小学校が移転。「府地誌」による生徒数は男84・女54。同校は同18年堀之上町に移転。また同30年本願寺門前町より真宗本願寺派光隆寺が移転。大正元年町内西側で道路を拡張し,同年11月市電が開通。各丁目の世帯数・人口は明治44年1丁目56世帯・222人,2丁目70世帯・291人,3丁目54世帯・327人,大正14年1丁目66世帯・239人,2丁目46世帯・213人,3丁目36世帯・159人,昭和40年には1丁目53世帯・221人,2丁目44世帯・178人,3丁目43世帯・154人。人口増減率(昭和40~50年)は1丁目28.1%減,2丁目27.5%減,3丁目32.5%減。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7137623 |