100辞書・辞典一括検索

JLogos

49

勧修寺
【かんしゅうじ】


旧国名:山城

西部は東山山系南端の丘陵地,東部は山科(やましな)盆地の南西部に位置し,東部を山科川が南流する。ほぼ中央にある亀甲山勧修寺(かじゆうじ)(現勧修寺仁王堂町)の寺名が周辺の地名に転化したもの。勧修寺は醍醐天皇の昌泰3年に,宇治郡の大領宮道弥益の邸宅の地に建立されたといわれる(創建の時期に諸説あり)。「世継物語」「今昔物語集」によれば,天安元年藤原高藤が山科に来往したおり,にわか雨を避けて宮道邸に雨やどりし,その折,弥益の娘列子と契りを結んだ。列子は女子を出産し,この女子が宇多天皇の女御となり醍醐天皇の生母となる藤原胤子である。のち高藤の流れをくむ藤原氏を勧修寺家と呼んだ。醍醐天皇の外祖父藤原高藤の墓は小野墓と呼ばれて鍋岡山山頂の現在の勧修寺下ノ茶屋町に,宮道一族の氏神を祀る宮道神社は現在の勧修寺仁王堂町に,藤原胤子の墓である小野陵(近世には狐塚と呼ばれた)は大日山南腹の現在の勧修寺北大日に,胤子の弟で醍醐天皇の甥でもあり勧修寺建立にたずさわった藤原定方の墓は現在の勧修寺南谷町にあり,勧修寺周辺に位置している。また宮道列子の墓という現在の勧修寺西栗栖野町の円墳は,考古学上は宮道古墳と呼ばれ,中臣十三塚古墳群に属する。宮道古墳の近く,栗栖野の山科川の西には坂上田村麻呂の墓がある(現在の勧修寺東栗栖野町)。花木塚ともいわれ,弘仁2年に薨じた田村麻呂を葬った所とされ,西の平安京の鎮護を祈願したものである。またこの墓所のあたりは馬背(ませ)坂という。さらに勧修寺御所内には明智塚または明智胴塚と称するものがあり,天正10年に明智光秀が天王山から敗走の途次,醍醐の南小栗栖村の地で殺害されたのち葬られた地といわれる。
勧修寺(中世)】 鎌倉期~室町期に見える地名。
勧修寺村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
勧修寺(近代)】 明治22年~昭和6年の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7138968