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京都御苑
【きょうとぎょえん】


京都市上京(かみぎよう)区にある御苑。明徳年間から明治の東京遷都まで500年にわたる皇居。京都御所・仙洞御所・大宮御所などが存在する敷地は,北は今出川通,南は丸太町通,東は寺町通,西は烏丸通まで。面積約11万km(^2),東西約700m・南北約1,300mで,平安期の内裏の約半分である。周囲には西に有名な蛤御門・乾御門,北に今出川御門,東に寺町御門,南に堺町御門(正門)など9つの門がある。敷地内の中心をなす京都御所は周りに灰筋塀,清流の溝がめぐらされ,南に建礼門,北に朔平門,西に清所門・宜秋(ぎしゆう)門・皇后宮御門,東に建春門がある。正殿にあたる寝殿造の紫宸(ししん)殿(南殿)は御所の最南端にあり,北を除く三方に朱塗りの回廊がめぐらされ,天皇の即位・朝賀などの重要な儀式が行われる場である。前庭は白砂で南庭といい,有名な左近の桜・右近の橘は南階の左右にたつ。そのほか天皇日常の御座所清涼殿,神鏡の奉安所春興殿,書院造の影響が濃く見られる常御殿(つねのごてん),花御殿(東宮御殿),御学問所・宜陽(ぎよう)殿などがある。また御所の東南の築垣に囲まれた場所に皇太后の住居大宮御所,上皇の住居仙洞御所および庭園がある。現在大宮御所は国賓の宿舎として利用されている。上記の御所は平安京の内裏と異なり,里内裏の1つであった土御門東洞院殿が元弘2年即位した光厳天皇により北朝の皇居と定められたのち,明徳3年に南北両朝が統一されてから,当所に所在地を固定したものである。戦国期に荒廃した御所は,永禄13年から元亀2年にかけて織田信長の命により工事が行われ,その後豊臣秀吉は御苑周辺に集居させた公家によって公家町を作った。これは,江戸期の公家統制策に受け継がれてゆく。また,御所はしばしば火災にみまわれ,宝永5年の京中大火でも類焼したが,将軍徳川綱吉が再造し,民家を二条川東へ移転させ,跡地を御苑の敷地とした。この時の敷地がほぼ現在まで続いている。また寛政2年には老中松平定信が入洛し,主な建物は古制に基づいて再建されたものの,安政元年に再び類焼し,現存する建物は安政3年再建のものである。さらに明治期に入り公家町は解体,現在の景観は明治10・11年に整備された。現在残るのは今出川通に面する冷泉家だけだが,公家屋敷などの旧跡は今もいくつか見られる。また御苑は,第2次大戦後たびたび米軍より接収を通告されたが,猛烈な陳情によって「聖域」に指定されたという政治的意味の含まれた変遷ももつ。昭和35年,京都御苑という上京区の正式町名となった。その際の京都府公報によれば,京都御苑となった地は次の町々により画された内側の区域。すなわち上京区春日町・堀松町・五丁目町・桜鶴円町・鷹司町・竜前町・広橋殿町・観三橘町・梅屋町・今出川町・玄武町・新北小路町・常盤井殿町・革堂之内町・大原口町・大原口突抜町・真如堂突抜町・真如堂前町・染殿町・東桜町・荒神町・松陰町・信富町,中京(なかぎよう)区下御霊前町・石屋町・毘沙門町・昆布屋町・舟屋町・桝屋町・桑原町・四丁目・鍵屋町・阪本町・関東屋町・三本木町・光り堂町・大倉町に囲まれた区域である。なお宮内庁所轄の京都御所・仙洞御所・大宮御所を含む全域は,環境庁所轄地。現在,御所見学には事前の申込みが必要だが,春・秋には無料公開も実施されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7139446