紺屋町
【こんやちょう】

旧国名:山城
(近世~近代)江戸期~現在の町名。土手町通正面下ルの町。寛永18年,六条と七条の間,東洞院通から東側に東本願寺の寺領が拡張したのに伴い道路の開通がなされ,その際市街化した地域。版行絵図では,承応2年新改洛陽並洛外之図に「こんや丁」と見え,以後,変化はない。中井家系の筆描絵図では,寛文12年洛中洛外大図に「かうしや丁」とあるが,天明6年洛中洛外大図は「紺屋丁」と記す。町内西側に,天和2年僧明寂開基による真宗大谷派正因寺がある。本尊は阿弥陀仏(府地誌)。江戸期は東本願寺寺内町新屋敷,明治2年の町組改正より下京(しもぎよう)20番組,同5年第30区と改称,同25年第30学区に編成。明治12年下京区紺屋町,同22年京都市下京区紺屋町となり現在に至る。明治44年の世帯数76・人口335,大正14年の世帯数75・人口295,昭和40年の世帯数81・人口295。人口増減率(昭和40~50年)32.2%減。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7140103 |