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神泉苑
【しんせんえん】


御池ともいい,「しんせんえん」が転訛して「ひでい」となり,現在では「ひでいさん」「ひでんさん」とも俗称される。この御池から御池通の名称を生んだ。平安京の禁苑。北は平安京の二条大路,南は三条大路,東は大宮大路,西は壬生大路に接し,南北4町・東西2町の範囲を占めた。苑内の施設は,正殿として乾臨閣という名の,左右に閣を有して3棟からなる建物を設け,法成就池,東西の釣殿・滝殿・橋などを配している。京都盆地北部の複合扇状地末端部にあたるため,豊富・清冽な湧泉があり,自然の池沼を利用して造営された苑であるという説がある。「延喜式」に,「神泉苑廻地十町内,京職をして柳を栽えしむ。町別七株」とあり,大宮大路をはさんで東側の4町,壬生大路をはさんで西側の4町,三条大路をはさんで南側の2町の計10町に,町別7株,合計70株の柳が列状に植えられ,神泉苑の外まわりを画していたと考えられる。「日本紀略」延暦19年7月19日条の桓武天皇行幸記事を最初として,桓武天皇27回・平城天皇13回・嵯峨天皇43回・淳和天皇23回と,きわめて頻繁に行幸が行われた。大同2年7月7日の平城天皇の行幸が「相撲を観,文人をして七夕の詩を賦せしめた」(類聚国史)ものであったように,初期には貴族階層の遊宴の場として利用されたが,斉衡年間以降になると,持呪験あるものを度したり(文徳実録),御霊会を修したりする宗教的行事の場としての色彩を強めるようになった。「三代実録」には,貞観4年に井泉の枯渇した京の諸人に水を汲むことを許し,貞観17年には炎旱に際して池水を決し乾かして鐘鼓の声を発すれば必ず霊験あって雷雨する,との古老の言に従って祈雨の行事を行ったことなどが記されており,次第に消厄除災祈雨の霊場としての地位を確立してゆく。祈雨霊験は天長元年空海が天竺大霊山の北,無熱池に棲む善女竜王をこの池に勧請して雨を降らせたことに起こるというが,これは空海と西寺の守敏との法力争いとして語られる伝説にすぎず,貞観17年真雅和尚による祈雨が正史に見える最初である(三代実録)。その頃すでに神泉苑の池に竜神が棲むとの信仰があった。この池は涸れることを知らず,池水を外へ放流すれば必ず雨が降るとも信ぜられた(日本紀略,天暦3年7月)。しかし,平安末期になると,苑も荒れ水も濁り,安元3年4月,苑内焼亡を前に善女竜王が飛び去ったともいわれ(百錬抄),建保の頃からは「荊棘道を閉ず」(山州名跡志)という有様となった。武州の一禅門は,このことを悲しんで,承久の乱ののち,「築地を高うし門を堅めて修造した」という。くだって南北朝の乱,さらに応仁の乱を経て荒廃はなはだしく,立石を奪い,苑内に牛馬を放ち,田を開くなどの狼藉が横行,慶長7年徳川家康が二条城建設のために残る苑池の大部分を割き取って,破壊は決定的となった。慶長12年,筑紫の僧快雅,板倉勝重,片桐且元らが復興を志し,この後寺領40石を寄せられて寺となり,空海の縁により東寺に属した(神泉苑復興勧進状)。その後,旧境域の北部は二条城,酒井讃岐守屋敷などの武家屋敷や町家に蚕食され,近世初期の京都絵図上において,既に神泉苑の境域は,御池通と大宮通に限られる1町に満たない狭いものとなっている。現在の面積は当時のほぼ半分で,現存の法成就池は往古の池の北東部にあり,中島の善女竜王を祀る。聖観音像を安置する本堂は池の西にある。善女竜王の祭日は八朔であるが,明治以後9月1日,5月1日と変わり,現在は5月3日に神泉苑祭を行う。1日から4日まで壬生念仏から分かれた無言の仮面劇である神泉苑狂言が行われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7141509