100辞書・辞典一括検索

JLogos

61

須久田里
【すくたがり】


旧国名:山城

(古代)条里の里名。須具田里とも書く。須久里と書いた例もあり(東寺百合文書な),天福元年7月28日,僧長尊田地売券に見える「久須里」も同一里と思われる(九条家文書/鎌遺4545)。山城国紀伊郡9条に属し,鳥羽郷のうち。伝九条尚経筆九条御領辺図に位置が記され(九条家文書3-652),現在の京都市伏見区竹田段川原町を中心とし,竹田中島町・同三ツ杭町・同中川原町・同桶ノ井町などの町域にまたがって存在した里で,いま東の界線に近く東高瀬川が南下し,西北端部を鴨川がよぎる。貞観6年正月21日の山城国紀伊郡司解案に,菅原朝臣幽児の内蔵寮宛沽却地の内として,32・33坪の田地計3反330歩が見えるのが初見(仁和寺文書/平遺143)。13世紀初期の山城国紀伊郡里々坪付帳には,当時の里内の所領分布が詳記されており,日吉田・安楽寿院領・祇園社領をはじめとして,斎宮田や修理職田・左右馬寮田・主水田などの官衙領,稲荷社・清水寺・東寺・貞観寺などの社寺領田が入り組んで存在していたことが知られる。また,34坪内の1反と35坪全部,および36坪の8反半は「川」もしくは「川原」と記され,そこから当時の鴨川の流路は現高瀬川付近を通っていたことが明らかである(九条家文書3-825)。その後18坪の日吉田5反は東寺領拝師荘の一部となり(東寺百合文書ケ),24・27・28各坪所在の日吉田計9反は同寺領東西九条女御田に属するに至った(東寺百合文書わ)。なお,文永10年6月1日,玄海寄進状案によると,そのころ12・21・22坪を含むあたり(現竹田段川原町から同桶ノ井町北部の地域)の字名を「大畠」と呼んだことが知られる(田中繁三氏文書/鎌遺11335)。戦国期文明13年には,盧山寺元裕が,26坪所在の真幡木荘田地2反につき,買得相伝の旨に任せて安堵されるよう幕府に訴えた事実がある(政所賦銘引付)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7141629