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双林寺
【そうりんじ】


京都市東山区下河原鷲尾町にある寺。天台宗。山号は金玉山。中霊山とも号した。正式には沙羅双樹林寺法華三昧無量寿院と称す。本尊は貞観様式をただよわせる薬師如来坐像(国重文)。開基を最澄とする。延暦24年,帰朝した最澄は将来した経典・仏具を桓武天皇に献じた。天皇は左大史尾張連定鑑に勅して伽藍を建立し(拾芥抄),それらを安置せしめたと伝える。延暦寺建立以後は,その別院になったという。鳥羽天皇は宸筆法華経を奉納し,皇女綾雲女王(双林寺宮)を住持とした(今鏡)。建久7年,土御門天皇皇子静仁法親王もまた住持して双林寺宮と称した(帝王編年記)。元弘の乱で荒廃し(太平記),観応の擾乱でも足利尊氏方の陣になっているが(祇園執行日記,正平7年3月15日条),応安4年には薬師堂のほか「風呂房并南庵」があった(同前,同年8月17日条)。中興を国阿弥陀仏とする。「国阿上人伝」によれば至徳元年,国阿は住持勝行房から当寺を譲られ時宗とし,弟子の持阿弥陀仏を住持にしたという。また後柏原天皇宸筆と伝え(坊目誌),永正10年8月の年紀をもつ「双林寺縁起」は,「洛陽東山国阿道場双林寺」と題し,「古此道場者,国阿上人開基,念仏三昧霊地,本尊慈覚大師御作生身弥陀如来,末世利益尊容也」と記す。時宗国阿派本山であった。嘉吉3年に高麗人が塔頭景雲庵を休所としている(康富記,同年6月19日条)。永享8年11月9日罹災(東寺長者補任/続々群書2)。長享3年4月9日足利義の葬儀に参列した(蔭凉軒日録)が,そのほかの動向はあまり明らかでない。天正13年に豊臣秀吉から朱印19石を与えられ,同17年に24石となり,江戸幕府も愛宕郡粟田口村内で24石を安堵した(寛文朱印留)。寺地は東西75間・南北50間,寺家7軒を擁した(京都大概覚書)。寺地は慶長10年の高台寺造営,承応2年の東本願寺大谷廟造営,明治3年の上知などにより漸次縮小した。17世紀前半には霊山正法寺と国阿門流の正統を争い(京雀),18世紀初頭には正法寺末となったようであるが(京内まいり),対立は長く続き,明治維新の際に天台宗に帰した。当寺はまた平安末期以降,文人・歌人が隠棲し詩歌を残していることでも知られる。西行は塔頭蔡華園院に住したといわれ,西行庵や西行桜が今に残る。「平家物語」には,平康頼入道が双林寺の山荘に籠居して「宝物集」を著したという。南北朝期の和歌四天王の1人頼阿も,西行を慕いここに住して没した。現在この3人の供養塔が並んで建てられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7141790