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橘の小島
【たちばなのこじま】


宇治市中部,宇治橋南方の宇治川の中洲。現在の橘島は昭和初年に定められた。中世以前の橘の小島は「古今集」に「今もかも咲きにほふらむ橘の小島のさきの山吹の花」と詠まれた景勝地で,歌枕の名所であった。「源氏物語」浮舟の巻には「これなむ橘の小島と申して御舟しばし,さしとどめ」るとあり,「年経とも変らん物かたち花の小島がさきに契る心は」(匂宮),「たち花の小嶋は色も変らじをこの浮舟ぞゆくへ知られぬ」(浮舟)と詠われ,現在の「橘島」とは位置的に異なる。中世には,「増鏡」に宝治2年10月の後嵯峨上皇の宇治川遊覧に際して「橘の小島に御舟さしとめてものの音ども吹きたてたる」とあり,また「平家物語」の宇治川先陣のくだりには「平等院の丑寅,橘の小嶋が崎より」といった記載があり,「太平記」には建武2年,楠木正成が橘の小嶋,槇島,平等院のあたりを一宇も残さず焼き払ったと記している。すなわち,当時の橘の小島は宇治橋の下流,平等院東北の中洲で,戦時に焼かれたことがわかる。また,その位置について近世の地誌類にも記載がある。「扶桑京華志」は「按ルニ源氏ノ弁列二日在橋下可一町,乃河中之島也,河水流ル于巨椋ニ然トモ而元和年間鑿河ヲ塞キ旧流,委ス于伏見ニ河水倍増ス故没ス小島崎ヲ」として宇治川が現在のように宇治市北西方で曲流せず,巨椋池へと西方に向かう付近にあった中洲で,元和年間に水没したとしている。「京城勝覧」も「橘の小島がさきは,むかし洪水にながれつきて今はなし,橋より下に有しといふ」と記し,貝原益軒も同様の説をとっている。謡曲「頼政」に槇の嶋・朝日山などとともに名所としてうたわれた。承応年間に「宇治八景」の1つとして選定され,住山旭峰の板行に「小嶋ケ崎時鳥」として描かれ夏の風物詩として著名であった。松尾芭蕉門下の下里知足は,近世中期になくなったこの名所をなつかしみ「橘の小嶋が崎も青田かな」とうたった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7142243