橘薗
【たちばなのその】

旧国名:山城
(中世)平安後期~室町中期に見える園名。山城国綴喜(つづき)郡のうち。木津川下流左岸,京田辺市北部,大住付近に比定される。大治4年6月22日付官宣旨に「宮寺領山城国橘薗」とあるのが初見(尊経閣所蔵文書/平遺2137)。同宣旨に「件薗者,為宮寺領既歴数代,随天禄二年以後国符免判炳焉,加之去延久年中任田畠本数,可為宮領」とあり,立荘が天禄以前にさかのぼることは確実で,延久年中にも官宣旨によって石清水社に安堵されたことが知られる。大治4年には興福寺領大住荘との境相論が起こっているが,これは橘薗が大住荘内に存在していたことにもよる。その正確な位置は不明であるが,一説には現在の大住の西方,通称大谷山(八幡市飛地)付近といわれる。一方,保元3年12月3日付の官宣旨によると八幡宮護国寺宿院極楽寺領として「橘御供田」が見え(石清水文書/平遺2959),建仁4年2月2日付の官宣旨案にも「極楽寺領橘薗并御供田」とあり(同前/鎌遺1423),この御供田は橘薗の付属田畠と推定される。寛喜2年1月付の宗清置文によると若宮長日御油月宛事として「橘一升九合内〈秋光六合〉」とあり(同前/鎌遺3922),当薗は毎月油1.9升,秋光名御供田は6合の油を負担していた。この橘御供田秋光名は治安3年10月の僧兼清解案(同前/平遺492)に見える極楽寺領綴喜郡5町4反240歩の一部に相当すると推定される。当薗は上の月宛油以外に毎年9月9日の御供米を納所しており「出飯料米三斗。橘園秋光〈仁〉下行之」と見え(榊葉集),また草内・淀などの神人とともに綱引神人の神人役を負担した(年中用抄)。このような興福寺領内に飛地として存在するという当薗の特殊性が,大住・薪両荘間の境相論を激化させる要因の1つであった。石清水社の膝下荘園として室町期まで存続し,文安2年8月15日付幕府御教書は山城守護京極持清に命じ「橘御供田」の押妨停止を指示している(尊経閣古文書纂)が,この頃からようやく国人による侵食が激しくなったようで,以後所見はない。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7142245 |