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平安京
【へいあんきょう】


古代の最後の都城の名。京都盆地北部に営まれた。延暦13年から,いわゆる福原遷都が行われ,続いて大内裏が放棄される治承4年までを,古代都城としての平安京の存続期間と見ることができる。遷都に至る経過と京名の由来についてまず概観すると,長岡京の造都が遂に完成に至らないまま,新たな都城の地を求める動きがにわかに活発になってきたのは,延暦11年のことであったと推定される。「日本後紀」によると(ただし実際には「日本紀略」の記載による),同年8月に大雨洪水があったことがわかるが(9日条),この洪水は長岡京左京地区にも及んだと思われ,天皇は長岡京左京東辺あたりを指すとみなされる「赤目埼に幸して洪水を覧」(11日条),「水害に遇うを以て」との理由で,「使を遣して百姓に賑贍」している(12日条)。この水害が,早良親王のいわゆる怨霊問題などで政界上層部に拡まっていた長岡棄都への動きを,いよいよ決定的にしたであろうという推測は妥当であろう。翌延暦12年正月15日条は,「大納言藤原小黒麿,左大弁紀古佐簣等を遣して,山背国葛野郡宇太村之地を相せしむ。都を遷さんが為なり」と,政府高官による新京予定地の視察を記録し,最上層部における遷都方針の決定を伝えている。桓武天皇の第1回新京地巡覧は3月1日。それより先,2月2日に賀茂大神,次いで3月10日に伊勢神宮,3月25日には先帝の諸陵に,それぞれ遷都の由を告げ,一方で,3月12日宮城築成のための役夫の徴発,6月23日新宮諸門の造営開始,9月2日新京の宅地の班給,同13年6月23日新宮の掃除,7月1日新京への東・西市と市人の遷置などの事業をすすめ,10月22日に至って遂に「車駕,新京に遷り」,遷都が実現した。同月28日の詔は「葛野の大宮の地は,山川も麗しく,四方の国の百姓の参り出で来たる事も便にして云々」と地の利を語り,翌11月8日の著名な詔は,「此の国山河襟帯,自然に城を作す。斯の形勝に因りて新号を制す可し。宜しく山背国を改めて山城国と為すべし。又子来の民,謳歌の輩,異口同辞し,号して平安京という」と,新京の名をうたいあげている。弟国宮・筒城宮・恭仁京・長岡京の諸例が物語るように,都の名は中心施設が置かれた場所の地名を採るケースが通例であるから,平安京も,もし通例にしたがっていたならば宇太村の名をとって宇太京と呼ばれた可能性が高い。前引の詔に郡名に基づく「葛野の大宮」とあるから,葛野京と呼ばれる可能性もあったといえる。しかし実際には,人々が異口同辞して号した平安京という名が採用された。政府側の世論操作は当然あったと考えるべきであるが,それにしても,現代の新市名の決定などにも通じる多数決主義,そしてまた地名を離れ人々の願望を托した新号の選択といった事実に,1つの特異なスタイルを認めることができる。明けて延暦14年の,新京における最初の正月は,大極殿が未完成であったため朝賀の儀は行われなかったが,16日に至って,侍臣を宴し,そこでは次のような踏歌(あらればしり)が奏され,にぎやかに新京の春がことほがれたのであった。曰く,「山城顕楽旧来伝,帝宅新成最可憐,郊野道平千里望,山河擅美四周連(新京楽,平安楽土,万年春――はやし)。沖襟乃眷八方中,不日爰開億載宮,壮麗裁規伝不朽,平安作号験無窮(新京楽,平安楽土,万年春)。新年正月北辰来,満宇韶光幾処開,麗質佳人伴春色,分行連袂儛皇垓(新京楽,平安楽土,万年春)。卑高泳沢洽歓情,中外含和満頌声,今日新京太平楽,年々長奉我皇庭(新京楽,平安楽土,万年春)」(類聚国史巻72歳時部3)。かくて平安京の名は定着していったのである。次に平安京のプランについて述べると,平安京の広さは南北9条半・東西8坊(左・右京各4坊)で,これを「延喜式」巻42左右京職の「京程」条の記載によると,南北1,753丈・東西1,508丈と示される。1丈は当時2.99m(杉山信三説),したがって,南北と東西はそれぞれ5,241mと4,509mであった計算になる。平安京の中枢部分が,朝堂院・内裏をはじめとする官衙地区から成る平安宮=大内裏である。大内裏は,京域北端中央に,南北460丈・2条半分,東西384丈・2坊分の広さを占めて営まれた。前引「延喜式」の「京程」条によると「宮城四面,垣半より隍辺に至る,三丈,〈垣基三尺五寸,壖地広二丈六尺五寸〉」とあって,宮城すなわち大内裏の四面に基部で7尺幅の垣がめぐり,その外側に2丈6尺5寸(約8m)幅の壖地(ぜんち)が設けられていたことがわかる。壖地の前面には,幅8尺(2.4m)の隍(ほり)がめぐらされ,隍の前面はそれぞれ二条大路,東大宮大路,西大宮大路,一条(北京極)大路の路面に接する造りであった。すなわち壖地は隍の内側にのみあって,大内裏を囲む緑地空間として趣をそえていたことがうかがわれる。この大内裏の部分がおそらく葛野郡宇太村の中心部であり,「新京宮城之内,百姓地四十四町に三年の価直を給う」(日本紀略,延暦12年3月7日条)ということが,造京に際して行われている。宮内ばかりでなく京内に入ることになった部分にも種々の処置がとられ,同年7月15日には,葛野郡百姓口分田が多く都中に入ることになったのに対処して,山背国雑色田を停止してこれを百姓に班給し,代わりの雑色田を四畿内に置くなどの方策を示した勅が発せられている(類聚国史巻159田地上)。新京造営に伴う波及効果は,いろいろなところにあらわれたことを知る。大内裏を除く町々は,左右京,各九条半四坊の各坊に編成された。条と坊を分ける街路が大路であるが,また大内裏東西辺の各4門,南辺の3門から出る道がすべて大路であったから,坊間に大路がある例もあった。北京極を走るのが一条大路,2町南に上東門・上西門から出て東西走するのが土御門大路(東大史料編纂所所蔵拾芥抄所収宮城図には,上東門大路と記されており,他の門から出る大路についても,門名がそのまま大路名として記載されているから,そういう呼称も用いられたらしい)で,両大路の間が北辺坊。さらに2町南,左右の近衛府前から東西へ陽明門・殷富門を東・西へ出るのが近衛大路(上の拾芥抄宮城図の方式にしたがえば,陽明門大路と殷富門大路。しかし以下略)で,その2町南,待賢門・草壁門を東・西へ出るのが中御門大路であり,土御門大路と中御門大路の間が条坊制の一条で,近衛大路は坊間大路であった。中御門大路の2町南,郁芳門・談天門を東・西へ出るのが大炊御門大路で,その2町南が大内裏南辺を走る二条大路であり,中御門大路と二条大路の間が条坊制の二条で,大炊御門大路は坊間大路であった。以下は4町間隔で三条から九条までの大路がそれぞれの条を分けながら整列していた。一方南北方向の大路は,大内裏南正門の朱雀門から京の正門羅城門に通じる幅28丈(約84m)の朱雀大路を中心に,東へ各4町を隔てて大宮大路,西洞院大路,東洞院大路,東京極大路が坊を分け,西へもまた各4町を隔てて西大宮大路,道祖(さい)大路,木辻大路,西京極大路が坊を分けたが,その間,美福門から南下する壬生(みぶ)大路が東一坊の,また皇嘉門から南下する皇嘉門大路が西一坊の坊間大路として,それぞれ存在した。これら大路の4本によって区切られて某条某坊で表される1つの坊は,東西・南北各4,合計16箇の町(1町は40丈平方)から成り,四隅の4町ずつが集まって4つの保を構成した。保・町はともに,左京では西北隅にはじまって南行する連続式の番号で呼ばれた。したがって町と保との関係は,一・二・七・八の4町が一保,三・四・五・六の4町が二保,十一・十二・十三・十四の4町が三保,九・十・十五・十六の4町が四保となる。右京はこれと対照的に,東北隅にはじまって南行する連続式の呼称をもった。次に,方40丈の1箇の町は,4行8門に区分され,10丈×5丈の東西に長い1区画が1戸主(へぬし)と呼ばれた。これが宅地の最小単位である。こうして,某条某坊(某保)某町西(西より,の意。右京の場合は東,すなわち東より)某行某門という表現で宅地の所在を的確に示すことができるシステムがつくられていた。ところで「延喜式」京程条によると,この1町の内部には,小路よりもランクの低い小径が,大路辺町には2本,市町には3本,それ以外の町には1本,それぞれ通じるように定められていた。「拾芥抄」の京図や,「二中歴」の宮城・保・坊図などを見ると,小径と思われるものが4行8門宅地割を十字に切る形で描かれている。平安京にあっては,二条以北および東と西の各第1坊にはいずれも条間または坊間の大路があるのであるから,二条以北と東・西大宮大路の間の町はすべて大路辺町である。他の部分について見ても,1坊16町のうち大路辺町は外まわりの12町で,大路に沿わないものは4町にすぎない。したがって,上記3種類の町のうちでは,2本の小径を有すべき大路辺町が圧倒的に多い。「拾芥抄」図や「二中歴」図の表現は,京内の町の大部分であるところの大路辺町の実態を示したものと考えることが適当であろう。すなわち2本の小径のある町では,小径は十字に通じた。町内を十字に通じたこの小径は,その形態によって「ジウジ」と呼ばれた可能性がある。古代都市としての平安京が終わりを迎え中世都市に変容する過程で,都市内街路は某々大路,某々小路から某々町通へと変化し,町通に対する横丁の意を持った辻子(ずし)という道路名が簇生してくるが,その辻子の語源が平安京の1町内に十字に通じた小径「ジウジ」に求められるのではないかという考え方がある。さて,町内に3本の小径があった市町の場合は,正応5年以前のものとされる東市町の図を見ると,南北方向に1本,東西方向に2本がキの字型に通されたのが一般的であったように見える。残りの,大路に沿わない町では,1本の小径が町の中央を南北に貫いていたと見て間違いない。注目すべき京内の主要施設の所在を若干列記する。左京三条一坊の東半8町を占めて,宮中禁苑としての神泉苑があり,右京三条一坊7・8町には穀倉院があった。七条には,左・右京とも,一坊3・4町を占めて東および西の鴻臚館が位置して,朱雀大路をはさんで対向し,九条では,これも左・右京各一坊三保の4町域を占めて東寺と西寺が対をなして立地していた。東・西市も,七条二坊二保の4町を中心に,その東西南北四面の各2町を加えた12町域を占めて,左・右京に対置されていた。左・右両京の北辺坊を除く一条から九条までの各条には,都城計画の当初からのものではないようであるが,それぞれ唐風の固有坊名がつけられるようになった。すなわち一条は桃花坊,二条は銅駝坊,そして三条以下は左・右京別々にされ,まず左京では三条=教業坊,四条=永昌坊,五条=宣風坊,六条=淳風坊,七条=安衆坊,八条=崇仁坊,九条=陶化坊,次に右京では三条=豊財坊,四条=永寧坊,五条=宣義坊,六条=光徳坊,七条=毓財坊,八条=延嘉坊,九条=開建坊である。このうちの若干は,学区名称として今日に受けつがれている。そして,左京は全体として洛陽の,右京は長安の別称をも有し,唐の両都を統合するかのような観念を体現していたのである。このような平安京の外周を固めるべきものが羅城である。しかし実際にはそれは実現せず,「延喜式」京程条中に,「南極大路十二丈」という記載に続いて,「羅城外二丈〈垣基半三尺,犬行七尺,溝広一丈〉」とあることからうかがわれるように,基幅6尺の垣と,その前面の幅1丈の小溝が,わずかに九条大路の南辺に築かれたにすぎない。ただし,このうちの小溝のみは,「三代実録」元慶8年8月28日条の「山城国正税稲一千三百八十七束九把を以つて,左京北辺溝橋等を造る料に宛つ」という記載や,京域東辺を南流した中川が京極川とも呼ばれた事実などから,京域四周にめぐらされていたことがうかがわれる。以上が平安京そのもののプランである。しかし,平安京計画は平安京の外まわりにまで視野を拡げてとらえる必要がある。まず第1に,平安京計画の基点または基線はどこか,という問題がある。それについては,京の建設以前からある道路とか,郡界線とか,条里地割の条または里の界線とかに求める考えもあるが,それらはいずれも疑わしい。最も妥当と思われるのは船岡山頂を基点としたと考える説である。その説は,平安京正中線の北延長が船岡山の頂上を貫くこと,船岡山頂と北京極間の距離が大内裏南北距離(一条大路と二条大路の間の距離)に等しいことの2つの事実に基づいている。この2つの事実は,偶然とすれば驚くほどの偶然であり,偶然にそうなったというよりは計画に基づいてそうなったと見る方が納得しやすい。実際,二条大路以北は必ず条間大路があって以南の街路パターンと異なること,また唐風坊名の付け方も二条大路の南北で異なることなどによって,北京極と二条大路の間は京内でも特別の地区であったといえるから,その南北距離に注目することは,理にかなっている。次に平安京計画における河川配置の問題を概観すると,平安京域に深いかかわりがある川は,東から高野川・鴨川・堀川(東堀川)・紙屋川(西堀川)・宇多川・御室川・桂川(葛野川)などである。これらの川は,京域の西南をかすめる桂川を除いて,4本の川に整理統合され,京域内外を直線的に南流させられることになったと思われる。1本目の川は,高野川と賀茂川を合流させた鴨川であり,2本目の川は玄琢を流れる若狭川の流水を主として受ける東堀川であり,3本目の川は鷹峯の谷を流れ下る川筋を整えた西堀川であり,4本目の川は御室川に宇多川を合流させたたぶん嶋田川という名の川である。ほかに今出川(中河)や小川などもあるが,これらは鴨川の分流の,完全に制御された人工細流であるから,考えの外に置いてよいはずである。上記のように統合・直線化された4河川のうち,鴨川は東京極の東およそ400mを流れ,嶋田川は西京極の西およそ400mを流れて,対称的であった。東・西の堀川も京の正中線をはさんで対称位置にあったが,そのような2河川間の対称性ばかりでなく,4河川の間隔,すなわち鴨川と東堀川,東堀川と西堀川,西堀川と嶋田川の各間隔が等しいという重要な事実も認められる。その上,鴨川東岸と嶋田川西岸との間の距離が正しく当時の10里の長さに一致する。これらの事実から,平安京の建設に際しては,まずはじめに船岡山を通る正中線を軸に東西10里=1,800丈の距離が計られ,その東西両端に1,800丈のそれぞれ100分の1,すなわち18丈=約54mの幅の鴨川河道および嶋田川計画河川敷を設け,残る1,764丈を3等分する2線上に東・西両堀川を流すことが計画され,実施されたと推定される。そして東西1,800丈の中央に東西1,508丈の平安京を据えたために,東京極と鴨川,西京極と嶋田川の間に各400mほどの空間が生じたと理解できる。この400mほどの空間は,平安京の北辺にも存在した可能性がある。それは,北小路という名の東西街路や今出川の東西流路の存在によっておぼろげにうかがわれるが,もう1つ,北京極北約400mに仮に線を引き,これを東へ延長すると,それと鴨川との交点において高野川・賀茂川が合流するという注目すべき事実によって確かさを増すといえる。一方,京南にも,それらにほぼ相当する空間があった可能性がある。南京極の南約5町を隔てて,古く大縄手と称した東西直線の古道がある。この道は山城国紀伊郡条里の十一条と十二条の条界線であるが,これを西へ延長すると,近世山陰道が向日町丘陵にさしかかる麓に成立した宿場町樫原(かたぎはら)の,おそらく平安期以来動いていないと推定される街路に一致し,一方東の延長は「九条御領辺図」(九条家文書)に山科口と記されていることから,古代に平安京の正門たる羅城門から出た山陰道と東海・東山・北陸併用道とがここを通ったと思われる。そのことから,南京極と大縄手の間を,東京極と鴨川間などのそれに相当する京南辺空間ではなかったかと考える。以上のようにして想定されるところの平安京をとりまく帯状空間は,先に大内裏の周囲に存在することを指摘した壖地に相当するもので,平安京の壖地というべき地帯,あるいは平安京の外周緑地ないしアーバンフリンジというべき空間であっただろうと考える。次に平安京の四神について概観する。都城の地を選定する場合に「四神相応」の地を求めるのは,通例である。例えば平城京では,そこへの遷都に先だつ和銅元年2月15日の詔に,「方今平城の地,四禽図に叶い,三山鎮をなす。亀筮並び従う。宜しく都邑を建つべし」とあって,四神相応の地であることへの配慮が認められる。平安京でも「四神(四禽)の思想」が支配していたことは,大極殿の東・西に蒼竜楼・白虎楼が配されたり,大内裏正門が朱雀門で,そこから南下する正中大路を朱雀大路と呼んだこと一つに照らしても明らかである。宮内にも京内にも玄武を名とする施設は見られないが,内裏の北門が玄耀門で,これらのセットでもって,京外周の壖地に対する大内裏外周の壖地という関係にも似た「四神配置のミニ版」を形成していたと考えることができる。それに対する外まわりの四神であるが,東の大河,西の大道,北の山,南の池沼が,それぞれ青竜,白虎,玄武,朱雀になぞらえられるということから,平安京の場合,北山ないし船岡山を玄武に,鴨川を青竜に,巨椋池を朱雀に,山陰・山陽の両道を白虎に,それぞれあててよしとする考え方が,広く行われてきたように思う。しかし,特に山陰道や山陽道をもって白虎になぞらえることには疑問がある。理由の第1は,北山あるいは船岡山が京北に,鴨川が京東に,巨椋池が京南にあるというのと同じような意味で山陰・山陽道が京西にあるとはいい難いことである。山陽道は羅城門を出て鳥羽の作り道をまっすぐ南下するのであり,山陰道すら羅城門からまっすぐ5町南下して,京の南辺沿いに大縄手を西行したと考えられるからである。第2に,山陽道は平安期にまぎれもなく国内最高位の官道で,巨視的には大宰府へ向かって西走したが,そのスケールは,他の3神になぞらえられるものに比して大きすぎ,調和しない。第3に,官道は東海道・東山道・北陸道・南海道なども京から出ているのであり,西に向かうものだけが取り出されたと見るのは不都合である。それゆえに四神は改めて考えなおさねばならない。結論としては,以下のように平安京の四神を整理して把握することができると思われる。朱雀大路の南延長線上,かつ南京極から正しく10里=1,800丈=5,382mの地点を含んで,東西2町・南北3町の範囲を小字朱雀という。そこは極めて低湿な地点で,小池沼がかつて存在した可能性があり,平安京の朱雀神になぞらえられていた可能性が強い。一方,船岡山頂は朱雀大路北延長線上で,かつ北京極から北へ大内裏南北距離と同じ距離をへだてており,頂上に磐座のごときものがある事実にも注目されてきた。したがって,これこそ玄武になぞらえられた可能性が大きい。船岡山頂から真東に600mほど離れた位置に,9世紀末頃玄武神社が創祀されることも,そのことと関係があるように思われる。青竜にふさわしい地物は,鴨川をおいて考えられない。そして,平安京においては左右は対称であるから,鴨川を青竜と見るならば,白虎はそれの対称位置になければならないのである。鴨川との対称位置にあったものは,上述のように嶋田川の計画河道線である。しかし,川の流れそのものを白虎にあてることはできない。ではどのように考えるか。嶋田川は,のちの御室川である。御室川は河川規模からいえば鴨川に比すべくもない。鴨川にくらべれば細流で,それは天神川が合流する現況においてさえそうである。ところが,そういう河川規模であるにもかかわらず,鴨川の幅に比肩し得る幅の遺構が,西京極の西400m付近,蚕の社(木嶋神社)の南延長線上に実在する。したがって,これをどう見るかが重要になってくる。憶測にならざるを得ないが,1つの考えを述べなければならないようである。憶測は幅員18丈の遺構を,先に述べたように嶋田川の計画河道と受けとる。しかし実際にそこを流れる川は畢竟細流にすぎなかったから,計画河川敷全体のありようは,水量豊富な東の鴨川が文字通りに青竜の横たわる姿に似ていたのにくらべ,乾いた白砂の帯が南北に続き,大道の通じるのに似た情景が展開した可能性が大きい。もしそうであったなら,それは白虎になぞらえるにふさわしいありようであったことになる。この嶋田川計画河道線の北端に位置する神社の名は,木嶋坐(このしまにいます)天照御魂神社であり,一方鴨川の合流点のすぐ北に位置する神社が,鴨川合坐(かものかわあいにいます)小社宅神社である。この両社は,例えば天暦3年5月の「神祇官勘文」(平遺4905)に並べ記され,のみならず同文書で,ともに天安2年8月7日という同じ日に,一方は「四度官幣」に,他方は「大社」に叙せられたことが記されているなど,「対」の関係がうかがわれるほど深いかかわりがある。現在,木嶋神社の境内に元糺の池という神池があり,「嵯峨天皇の御代に下鴨に遷してより元糺と云う」と,やはり鴨川合流点付近との密接な関係を伝えている。社名が川と嶋の対であることも興味を引くが,のみならず木嶋神社に関しては,「水もなく舟もかよはぬこの島に いかでかあまのなまめかるらん」(拾遺集),「あなしにはこのしまのみや白砂の 雪にまがへる波はたつらん」(新勅撰集)などの古歌があり,近世地誌類にたびたび引用されて,水のめぐらない島,あるいは「白」が強調されてきた傾向があり,それは,木嶋神社正面に南走するおよそ50m幅の嶋田川計画河道遺構が白虎になぞらえられてきたことを示唆しているのではあるまいかと思われる。「元亨釈書」巻12によると,釈賢憬(正しくは賢璟と記す)という東大寺沙門が,延暦12年の小黒麿らの新京地視察に従ったことがわかるが,その目的は地相の吉凶善悪などを調査することにあったのであろうという説が,近年提出されている。平安京地をとり囲む山並を見て山背国を山城国に改名することを発想したのは賢璟だったのであるまいかと想像するが,新京地視察の際には,そのほかにも,上述のような四神の擬定,その擬定地点の平安京都市計画ないし広域計画の中へのとりこみ,位置づけなども考慮され,それらにも賢璟が関与するところがあったのではないかと思われる。憶測を交えた以上の考察の結果,平安京においては大内裏をとりまく壖地と京域をとりまく壖地のセットがあり,また大内裏内の四神--玄耀門・朱雀門・蒼竜楼・白虎楼――と京外の四神――玄武の船岡山・朱雀の小字「朱雀」・青竜の鴨川・白虎の嶋田川計画河道――のセットがあるというように,整った都市計画が推進されたことが認められる。そして,それらすべてをとり囲んで,四周の山が自然の城をなしていると思考された。これまでの都城には例を見ない形で都市計画の中にきっちりと位置を占めた四神に守護され,それらを包みこむ四周の城壁のような山並みに保護された新都は,平安で,かつ永遠であるべき都以外のなにものでもなかったであろう。平安京の新号が山城への国号改称を語るその同じ詔において示されたのはそのゆえであり,ここに至って,平安京はなぜ平安京という名を得たのかが,はじめて,しかも極めて鮮明に理解できるのである。以上述べたことは,主として平安京の計画に関する側面であり,そこに示した姿・形は,理想とする姿,あるべき形であった。現実は必ずしも意図されたように家屋が充填した都市景観を形成したわけではないし,また左右対称の姿が計画通り展開したわけでもない。「延喜式」によると,京中には多くの空閑地・卑湿地があり,田畑の耕作さえ広く行われていた有様を知ることができる。「延喜式」の時代からさらに時を経た10世紀末のありさまを,慶滋保胤の「池亭記」によって見ると,その天元5年の記事に,「余二十年以来,東西京を歴見するに,西京は人家漸く稀にして殆ど幽墟に幾(ちか)し。人は去るありて来ることなく,屋は壊るるありて造ることなし。……夫れ此の如きものは天の西京を亡ぼすもの,人の罪にあらざる明也。東京は四条より以北,乾と艮との二方は人々貴賤となく群聚する所也。商家門を比べ堂を連ね,小屋壁を隔て簷(のき)を接す」と記されて,左京の繁華と右京の荒廃の著しさとを明らかにしている。「拾芥抄」所収左京右京図も,左京の特に北半部に官衙町(諸司の厨町)や公家の邸宅が密度高く群聚する有様を描いていてこのことを証しているし,ほかに,左京にしばしば大火の起こること,貧民救恤のための銭の分配で右京をしのぐこと,西市の衰微が著しかったことなども,人口・家屋分布の東偏を傍証している。このような現象を呼び起こしたなによりも大きな原因は,東北に高く,西南に低く,緩傾斜する京内の扇状の地形に求められるのである。造京以来の市街東遷の趨勢は,時の経過とともにますます進み,ことに承暦元年の法勝寺創建をはじめとして六勝寺の建設が相次ぎ,鴨川の東,白河の地に繁栄が及んで「京・白河」とまで併称されるようになると,左・右京の盛衰の開きはその頂点に達する。右京に付けられていた長安の別称が失われ,左京に付けられていた洛陽の名のみが残って,京都を洛陽と称し,洛中と称し,京へ行くことを上洛と称する習慣が残ったのは,このためにほかならない。そして12世紀後半になると,まず保元・平治の乱にはじまり,安元3年には,樋口(万寿寺通)富小路に発した業火が,北は大内裏から南は六条まで,東は富小路から西は朱雀大路に至るまで百十余町を焼き尽くし,都の3分の1が一夜にして灰燼に帰するという災禍にあい,ひき続いて治承4年には福原遷都とそれに伴う大内裏の放棄に至るのであるが,こうした重大な災禍と混乱の経過に併行して,殷盛を誇った古代都城平安京は,急速に衰微してゆくのである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7145023