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舞鶴港
【まいづるこう】


舞鶴市北部に位置する港湾。若狭湾西部の湾入,博奕岬と金ケ岬を結ぶ線より南方に延び,両岬間は約1.1kmと狭いが,リアス式の天然の良港。人字型に東・西両港が分岐し,湾内域は25.3km(^2)。古生層の山地が落ちこんだ典型的な沈水海岸。海岸線の延長は約60km・平均水深10~20m,錨泊に適した泥留の海底は鍋底型に平坦で,土砂を大量に流入する河川もなく,干潮差平均0.3m。湾内・湾岸の景色も良く若狭湾国定公園に含まれる。特に西港域は笛ノ浦(丹後国里程実測地図)・九景が浦・小瓊浦(けいほ)などと呼ばれ,詩歌に詠まれた景勝地。湾内は中央部にある戸島によって二分され,東側を東港,西側を西港とする。西港臨海部に天正年間,細川氏が築城し,江戸期を通じて田辺湊として栄えてきた。城下町も海に面して造られ,港津都市への基礎がつくられた。細川氏以後は,京極・牧野氏を経て城下は整備され,城下の西を流れる高野川河口部の竹野町が藩内物資流通の中心となり,天明2年には100~200石積を含めて49隻の船を有した(竹尾町区有文書)。「田辺領図」(牧野文庫)にも「田辺湊 遠浅潮時不構舟掛良 宮津湊より九里 大川口より三里半 若狭小浜湊迄六里 但馬津居山迄廿四里」とあり,明和年間の「日本汐路之記」には「田辺の湊 牧野豊前守殿御城下 知行三万五千石」とあるが,当時は同じ領内の大川(由良川)口にあった由良湊のほうが利用度の高い良港として知られた。田辺湊は湾口が狭いため出入が難しく,大型船は由良湊や避難港としての黒地湊を利用していた。しかし,良港湾であったので嘉永年間の開港場の候補にもなり,外国船に備えて砲台も築かれている(舞鶴史話)。享保12年の大火後,城下の漁民は伊佐津川尻に集められ,漁民集落の吉原が成立,以来丹後海域最大の漁村として栄えてきた。明治22年舞鶴湾内に軍港設置が決定したが,西港域は,商船の出入拘束がなく商港としての整備が進み,同30年代には大阪商船はじめ若丹各港との連絡航路の発着港となった。同36年府費支弁港湾となり,同37年大阪~舞鶴間の鉄道開通とともに海舞鶴駅(現舞鶴港駅)も設けられ,若丹各地から境港に至る鉄道連絡船の起点となり,大正13年宮津に鉄道が通るまで利用された。当時は高野川尻の住吉入江が西港の中心部であった。一方,東港域は江戸期には大波・市場・浜(白糸)が主要な港であり,特に北国街道との結節点に位置した市場湊は北前船が入港した。明治期に入り鎮守府の関連施設が設けられ,寒村地帯から軍港都市へと変貌し,軍港・軍都として急激に発展した。しかし,大正12年に海軍軍備縮小から要港となり,商港設置運動が起き,五条海岸から七条海岸に桟橋・倉庫,同13年には臨港鉄道が設置,国内・外航路誘致決定,昭和5年に新舞鶴(現東舞鶴)港は内務省指定港となった。その後,同14年に鎮守府が復活し,商港としての機能は停止した。また,舞鶴港は明治40年代と昭和初期にかけて,2期に及ぶ港湾修築が行われ第1・第2の近代的埠頭が完成,明治39年のウラジオ航路をはじめ,7種の定期航路の寄航港となった。漁港部も整備され,昭和15年には日本海域で最大規模の販売所が設置された。だが同18年に西港域の大部分が軍港域に編入され,商港としての機能は低下した。第2次大戦後,昭和23年に開港指定,同26年重要港湾・入国港・漁港域の第3種指定,同36年第1次修築を開始。東港は,戦後引揚港指定を受け,昭和22~23年にかけて,約66万人が上陸した。引揚桟橋と援護局は平に設置された。東港域の旧軍施設は,同25年に第8管区海上保安部,同27年海上保安隊(現自衛隊)の基地として転用された。旧海軍工廠は,民間の造船所とされ,ほかにガラス・合板工場が誘致された。同43年に第4,同48年に第3と大型埠頭を整備。この間,昭和30年に北海道定期航路を再開,同33年に日ソ定期航路指定を受け,外材輸入も再開,同45年には小樽との間に大型フェリーが就航,近畿圏と北海道を結ぶ門戸となった。同51年には第5次港湾整備計画がたてられ,同53年に着工決定となった近畿自動車道と結節し,国際的貿易港への飛躍をめざしている。昭和52年度の内航船の入港7,095隻,外航船335隻,木材中心輸入量140万t・繊維中心輸出量11万t。港内各地との連絡は,国の離島航路指定を受けた舞鶴汽船により,1日6便,高野川尻と大君・吉田・青井・日杉・千歳・大丹生・浦入とを結び就航している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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