社里
【やしろがり】

旧国名:山城
(古代)条里の里名。社田里ともいう(柳原家記録/平遺1801)。山城国紀伊郡11条に属する。伝九条尚経筆九条御領辺図に位置が示され(九条家文書3-652),現在の京都市南区東九条南河辺町・上鳥羽鉾立町・同苗代町などを中心とし,西は油小路通の延長路,北は十条通の1筋北の東西路で限られる地域で,東南隅はいま鴨川にかかる。永久元年12月の玄蕃寮牒案に,里内5か坪に散在する計1町6反310歩の後深草陵墓田が書き上げられているのが初見(柳原家記録/平遺1801)。当時安楽寿院領真幡木荘の田地も散在していた(安楽寿院古文書/平遺2519)。仁平3年12月26日の東九条領坪付案にも34坪所在の田地7反が見える(九条家文書3-656)。鎌倉期に入り,13世紀初期の里内の状況を詳細に図示した山城国紀伊郡里々坪付帳によると,中央部を「町尻川」が南下していたこと,各坪には11町歩余の日吉田のほか,主殿寮・右馬寮・左京職・内膳司・修理職・斎宮寮などの官衙領,安楽寿院・稲荷社・平野社・法性寺・醍醐寺などの社寺領あるいは昭明門院領などが入り組み散在状態にあったことがわかる(九条家文書3-825)。文保元年10月の東寺領拝師荘坪付并斗代注進状によると,10・15・20の3か坪に7反240歩の荘田が存在し(東寺百合文書ま),長享2年2月26日の同寺領東西九条女御田年貢算用状には,5坪所在の1反240歩が書き上げられている(東寺百合文書わ)。なお明徳2年12月18日の尼性心寄進田地目録には,31坪(現東九条石田町内)所在の左京職田5反半につき「号石田」の記載があり(東寺百合文書ヱ),「九条家文書」所収の南北朝期~戦国期の田券・所領目録類によると,7坪辺(現東九条松田町内)に「大こ田」(九条家文書4-1298),12・13坪辺(現上鳥羽南鉾立町)に「ホコタテ(あるいはホクタテ)」(九条家文書3-892・4-1003),14坪(現上鳥羽鉾立町内)に「高畠(別称蔭石)」(九条家文書4-1329),17・20坪辺(現東九条南河辺町内)に「西フカ」(九条家文書4-1298),18・30坪(現東九条河辺町・西河辺町内)に「日塩田(ヒシヲ田)」(九条家文書4-1052),15・27坪(現上鳥羽鉾立町・苗代町内)に「大畠(ヲハタケ)」(九条家文書3-747・905,4-1087),20坪(現東九条南河辺町内)に「フカマ」(九条家文書4-1087),21坪(同じく南河辺町内)に「川なへ」(九条家文書4-1298),32坪(現東九条南石田町内)に「尼淵(アマカフチ)」(九条家文書3-819・883)などの小字名が存在したことが知られる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7146163 |