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大阪府
【おおさかふ】


(近代)明治元年~現在の府名。慶応4年1月22日,新政府の地方官庁としての大阪鎮台が本願寺津村別院(現大阪市東区本町4丁目)に設置され,摂河泉3国における新政が開始されたが,5日後には大阪裁判所と改称され,営所も内本町橋詰町の旧大坂西町奉行所に移された。大阪裁判所の管轄地は,旧大坂城代直轄の大坂城地,旧大坂町奉行支配の大坂市街地・摂津国豊島(てしま)郡岡町(豊中市岡町),旧堺町奉行支配の堺市街地,和泉国南郡貝塚町,そのほか摂河泉3国内における旧幕府代官支配地の一部のみで,合わせて8万7,100余石にすぎなかった。同年5月2日,府藩県制の制定により,大阪裁判所を改称し大阪府が設置された。当府の最初の管轄地は,大阪裁判所の管轄地を継承したものであったが,5月10日には河内・和泉の2国および摂津国川辺郡以東の8郡内における社寺領の一部8,300余石が,同24日には同じく河泉2国および摂津川辺郡以東の8郡内における1万石以下の領地9万7,200余石がそれぞれ加えられた。その後も当府の管轄地は膨張を続け,ついに33万7,200余石に達した。そこで司農局を南・北2局に分け,南司農局は河内国,北司農局は摂津国をそれぞれ管轄することとなった。しかし,同年6月22日,堺市街地を含む和泉一円の4郡内2万1,300余石をもって堺県が設置され,さらに10月には大和川の中央を両府県の境界と定めて,摂津のうち大和川以南の7か村が堺県に編入された。翌2年1月20日には,摂津国8郡内の15万4,600余石をもって摂津県が,河内国16郡内の18万2,400余石をもって河内県が設置され,それぞれ大阪府から分離独立した。その結果,大阪府の管轄地は大阪市街地のみになったが,その後摂津県のうち大阪市街地に隣接する東成(ひがしなり)・西成(にしなり)2郡の一部は,再び大阪府に編入された。さらに摂津県が豊崎県を経て兵庫県に統合されるに及んで,東成・西成2郡の残りの部分と住吉郡が大阪府に移された。明治4年11月,府県の統廃合(3府72県制)が実施され,摂津の諸県は廃止されて大阪府と兵庫県に分かれたが,その際高槻(たかつき)・麻田の2県が大阪府に統合された。その結果新しい大阪府は,大阪市街地の東・西・南・北の4区および摂津国島上・島下・豊島(てしま)・西成・東成・住吉・能勢の7郡の24万5,400余石をその管下におき,府庁を西成郡東横堀に設けて政務を開始した。なお明治5年には,官民共同の費用をもって,新庁舎を大阪西大組第5区の江之子島に新築することが決定され,5万300余円の巨費を投じて同7年7月に完成した。府民はこれを「江之子島政府」と呼び,たちまちにして大阪の新名所となった。なお大阪府庁は,大正15年11月,現在の大手前町の庁舎に移転した。また明治初年の公文書では大坂府・大阪府の混用が見られ,大阪の字が定着したのは明治10年代後半のこととされている。明治14年2月7日,堺県を廃し大阪府に統合。これよりさき,堺県は明治9年4月に奈良県を統合していたので,大阪府の管轄地は従来の摂津7郡に新たに河内・和泉・大和の3国が加わることとなり,大阪府史上で最大のものとなった。しかし同20年11月4日,大和地方を分けて奈良県が再設置され,大阪府から分離独立した。かくして摂津7郡と河内・和泉2国を管轄地とする現在の大阪府の区域が確定した。初代知事は醍醐忠順。同22年市制町村制施行時の市町村数は大阪・堺の2市と12町310村,昭和28年には17市43町89村,同36年には26市20町2村,平成12年現在は33市10町1村。なお大阪市は政令指定都市で24区を編成。明治42年の戸数44万2,140・人口214万4,133(統計書)。世帯数・人口は,大正9年56万7,104・258万7,847,昭和10年88万9,898・414万6,422,同25年88万1,536・385万7,047,同35年130万8,542・550万4,746,同50年252万6,821・827万8,925,平成12年349万552・862万6,766(国勢調査報告)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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