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勝尾寺
【かつおじ】


箕面(みのお)市粟生間谷(あおまたに)にある寺。高野山真言宗。応頂山菩提院と号す。俗に「かちおじ」ともよぶ。本尊は十一面観音。神亀4年善仲・善算の兄弟が勝尾山に入り修行し草庵を結んだことに始まるという。その後天平神護元年光仁天皇の皇子が善仲・善算の2人に就いて授戒し開成と称した。開成は2師の素志を継いで宝亀6年大般若経600巻を書写して般若台(現六角堂)に納め,弥勒寺と称する一寺を建立(本朝高僧伝/仏教全書103・勝尾寺古流記/箕面市史史料編1)。光仁天皇がこれを聞き,豊島下郡の牟礼・蕀切・田中・倍賀畠田・甘舌・藤井などの水田60町を施入したとする(勝尾寺古流記/同前)。第6代座主行巡の時,清和天皇の病気平癒に効験を示したので現寺号を賜わり,以後寺運は隆盛に及んだという(沙弥心空筆勝尾寺古流記/同前)。「三代実録」元慶4年12月4日の清和太上天皇崩御の記事に,生前太上天皇が名山名刹を巡幸した際当寺を訪れたことが見える。翌年1月7日大和国東大寺・山城国貞観寺・当寺など13か寺が太上天皇追福の功徳を修し,院物を施されている(三代実録)。承平5年の惣持寺資財帳案(箕面市史史料編1)には「別院 勝尾山寺壱処」とあることから,当時は惣持寺(茨木(いばらき)市総持寺)の別院として管理下におかれていたと思われる。しかし寿永3年一ノ谷合戦に向かう源氏勢の兵火で一山焼失(沙弥心空筆勝尾寺古流記/同前)。元暦元年2月の「勝尾寺焼亡日記」(箕面市史史料編1)によると,焼失の堂舎は本堂・講堂・常行堂以下の主要堂宇と私持仏堂4宇,他の坊舎53宇に及んでいる。翌文治元年に再建に着手。京大工,四天王寺の檜皮大工,東大寺の鋳物師(いもじ)ら職人の手で工事が行われ,建久3年完成(勝尾寺再建記録/同前)。当寺4代座主勝(証)如は浄土教の開祖といわれており早くから当寺において浄土信仰が見られ,また平安後期には「聖の住所」として「梁塵秘抄」(古典大系)にも歌われて,承元元年より建暦元年までの4年間,配流された法然が当寺に寓居し一切経を寄進(法然上人行状絵図)。文永6年後嵯峨天皇より阿闍梨3口を置き,勅願所とする院宣を賜給された(箕面市史史料編1)。中世期の寺領については寛喜元年に当寺と右馬寮が管理する豊嶋牧の沙汰人左衛門尉経真との間で境内山地をめぐっての境界相論が起こり,翌2年2月当寺の四至の境界牓示として八天石蔵を置き,経真の濫妨を停止せよとの下文が右馬頭から出され落着。その時の四至とは,「東限泉原〈御室御領〉粟生山〈綾小路御領川定〉,南限萱野山〈近衛殿御領〉,西限寮御牧領川定,北限高山堺」である(勝尾寺所蔵文書/大日料5-5)。寛元元年沙弥心空筆の当寺古流記によればこのほか山林寺領200町歩を有したという(箕面市史史料編1)。鎌倉中期から末期にかけて美(真)河原荘の上分仏性米をめぐって美河原荘の領家である比叡山の門跡寺院浄土寺(京都市左京区)との相論が起き,高山荘・院外荘の領有の問題に発展。この際美河原荘・高山荘・院外荘が清和天皇から寄進されたものだとする偽文書が作られた(同前)が,元弘3年12月29日当寺が3荘を領有するという訴えは退けられ,浄土寺側に荘地管理の沙汰が下った(同前)。しかし南北朝期に入ると当寺僧衆の武力を目的とし3か荘の所有は建武の中興を挾んで二転三転,建武3年2月5日には高山荘地頭職が足利尊氏より寄進され,同年8月の尊氏御教書案では「当寺(勝尾寺)領外院・高山・真河原等三ケ庄」とあり,3か荘の領有が認められていたと思われる(箕面市史史料編2)。また貞和3年尊氏より椋(倉)橋(くらはし)荘内の長嶋を寄進され,正平8年山名時氏からは禁制が下されるなど歴代将軍から保護を受けてきた(同前)。康暦2年光明法皇が当寺において崩御したといわれ,同年法皇の追善のために七重塔婆が建立された(大阪金石志)。戦国期に入り寺運も衰退,文禄3年の太閤検地では寺領7石を付されるのみ(箕面市史2)。慶長8年豊臣秀頼が堂宇を補修(大阪史蹟名勝天然記念物2)。江戸期に入り,高野山金剛峰寺釈迦文院の末寺となり,朱印地を給わったという(同前)。元禄期には,講堂・如法堂・開山堂・二階堂・般若台などのほか,僧坊として無量院・不動院・正覚院・小池院・教学院など23宇が境内にあり(摂陽群談),中世期からの広大な境内山林を経済的基盤としていた(箕面市史2)。明治維新後上地され,しだいに荒廃。現在境内には講堂(本堂)・薬師堂(如法堂)・六角堂(般若台)・荒神堂・二階堂などの堂宇がある。二階堂はもと証如の草庵で,法然が当寺に寓した際ここに庵を結び住した。寺宝として木造薬師如来及両脇侍3体・紙本墨書法華経第4巻(国重文),石造五輪塔・絹本著色阿弥陀三尊像・木造千手観音立像・木造男神立像・銅造天部明王像8体・勝尾寺文書1,193点(府文化財)を所蔵。年間行事としては毎月28日の荒神祭,9月9日の開山忌がある。開祖と伝える開成の墓域は陵墓に指定され宮内庁が管理。旧境内には国史跡に指定された牓示八天石蔵と町石がある。牓示八天石蔵は当寺を中心に1~2kmの範囲に所在。当寺所蔵の元禄2年の絵図では,丑寅の方角に多聞天王石蔵,卯の方角に降三世明王石蔵,辰巳の方角に持国天王石蔵,午の方角に軍荼利明王石蔵,午未の方角に増長天王石蔵,未申の方角に大威徳明王石蔵,酉戌の方角に広目天王石蔵,亥子の方角に金剛夜叉明王石蔵と示されているが,調査の結果必ずしも実際の方位と一致してはいなかった。8か所の遺構は,下段約4m四方・中段約3m四方・上段約2m四方の3段からなる高さ約1mの方形石壇。各壇の下の石蔵中央には青銅製の四天王・四大明王のうち1体を寺の方向に向けて安置した陶製容器を埋納。容器は信楽焼と思われる厨子をかたどった隅丸方形の筒形である(箕面市史1)。また道標である町石は当寺旧参道両側に点在し,36町から始まる。いずれも花崗岩製の五輪塔婆で,旧寺域の南限にある7町塔婆から下乗塔婆までは空輪の最大径部が下方に位置し,水輪の肩部が強く張り出さないという特徴をもつ鎌倉中期以前の形式のもの。当寺所蔵文書中の勝尾寺毎年出来大小事等目録に「宝治元年十一月ごろ,町率都婆これを立つ」とあり,現在知られているこの形式の町石塔婆の最古の例(同前)。東海自然歩道の発着地。また西国三十三か所観音霊場の23番札所であり多くの参詣者でにぎわう。




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「角川日本地名大辞典」
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