奥佐見
【おくさみ】

旧国名:播磨
林田川支流佐見川の河谷の出口。地名の「さみ」は動詞「さびる」(荒・寂)の転訛で,古くは奥佐見・口佐見・八幡にわたる一帯を佐見と呼び,全体に微高地で水利が悪く,荒蕪地であったことによる。地内の則国・成俊は,中世の名田名が地名となった名田地名。葛城は谷の奥に立地,この谷は葛城山(不動山)に通じる。同山中に飯出寺(別称バサデラ)の廃寺跡があり,同寺は天平10年行基の高弟澄光が開き(峰相記・播磨鑑),羽柴秀吉に焼かれたと伝える。八幡神社は社伝によると寛平5年近接8か村の有力者36人が石清水八幡宮の分霊を勧請したのに始まり,この子孫を小烏帽子といい神事に関与する。
【奥佐見村(近世)】 江戸期~明治初年の村名。
【奥佐見(近代)】 大正6年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7156631 |





