片野荘
【かたののしょう】

旧国名:但馬
(中世)鎌倉期~南北朝期に見える荘園名。但馬国出石(いずし)郡のうち。建長8年9月20日付崇徳院御影堂目録(門葉記巻140/鎌遺8042)に「一,御影堂領……但馬国片野庄」とある。また,弘安8年但馬国大田文にも「片野庄 三十九丁二反三百分〈崇徳院御影堂領 領家二位律師〉不出注文之間,任古帳注進之」と見え,鎌倉期には崇徳院御影堂領であった。鎌倉末期の正中3年2月にも後醍醐天皇綸旨によって当荘は同堂に安堵されている(門葉記巻147/大正新修大蔵経図像部)。南北朝期,貞和4年2月22日付今川頼貞注進状(東洋文庫所蔵但馬国雀岐庄具書)に「一,片野庄〈崇徳院御影堂領,下司志津田彦三郎入道,公文当麻左衛門両人共当国本御家人〉」とあって,当荘の荘官らが大高山の南朝方に与同したとして所領を闕所とされている。この「片野庄下司公文両職」は翌5年に幕府から門真左衛門入道舜意に宛行われた(同前)。争乱期にあって,武士が当荘を次第に侵略している様子がうかがわれる。近世の「但馬考」は久畑・後・中・小坂(こざこ)・佐田の5か村を当荘域としている。荘域内における中世城郭跡には,愛宕城(久畑)・伊能城(佐田)・後城(後)があり,特に後城跡からは平安期の銅鏡が出土し保管されている(城館荘園遺跡)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7157019 |





